満員電車で誤解された|否認事件で何が証拠になるのか
会社からお金の使い込みを指摘されたあと、あるいは内部調査を受けたその日のうちに、「これに署名してほしい」と一枚の書面を差し出されることがあります。表題は「返済誓約書」「支払誓約書」「債務弁済契約書」などさまざまですが、書かれている中身はおおむね似通っています。
この記事は、会社側ではなく署名を求められた側の立場で書いています。はじめにお伝えしておくと、署名が常に不利に働くわけではありません。被害を弁償する姿勢は、刑事の処分を考えるうえでむしろ大切な要素です。問題になりやすいのは、その紙が何を確定させる書面なのかを知らないまま、その場の空気で署名してしまうことのほうです。
その紙は何のために用意されているのか
企業側の弁護士が書いた実務解説を読むと、社内での聴取について共通した手順が示されています。先に客観的な資料を集めておき、本人が事実を認めた時点で、できるだけ早く支払誓約書に署名押印をもらう、という流れです。理由もはっきり書かれていて、後になって本人が事実を否定した場合に備え、認めた時点の書面を証拠として残しておくためだとされています。
つまり返済誓約書は、返済のスケジュールを整理するための事務的な紙ではありません。実質的には次の二つの役割を持っています。
- 本人が事実を認めたことを示す記録としての役割
- 会社の債権の金額と支払条件を確定させる契約書としての役割
この二つが一枚に同居しているところが、返済誓約書という書面の特徴です。「返す気持ちがあることを示す紙」という説明を受けても、法的にはそれだけの意味にとどまりません。
条項ごとに、署名する側から読み直す
市販のひな形や企業向けの解説で紹介されている返済誓約書には、おおむね決まった条項が並びます。会社側から見れば当然の内容でも、署名する側から見ると意味が変わってきます。
| 条項の名前 | 書面での書かれ方の例 | 署名する側にとっての意味 |
|---|---|---|
| 債務弁済条項 | 金○○円の債務があることを認める | 金額がその場で確定する |
| 支払条項 | 毎月○日限り金○円を支払う | 分割の条件が固まる |
| 期限の利益喪失条項 | 支払を怠ったときは残額を直ちに支払う | 一度遅れると残り全額を請求され得る |
| 連帯保証条項 | 連帯保証人 氏名・住所 | 家族などが同じ責任を負う |
| 控除に関する条項 | 給与および退職金から控除することに同意する | 賃金からの差引きに同意したことになる |
| 清算条項 | 本書に定めるほか債権債務がないことを確認する | 自分の側の未払分の請求も併せて整理される場合がある |
| 守秘義務条項 | 本件の内容を第三者に口外しない | 文言の広さによっては窮屈になる |
期限の利益喪失条項は見落とされやすい
分割払いの条件だけを確認して安心してしまう方が少なくありませんが、実務上重いのはこの条項です。毎月の支払額が現実的でも、一度でも遅れれば残額全部を一括で請求され得る仕組みになっています。無理のない金額かどうかは、平時の収入ではなく、退職後や転職活動中の収入を前提に考えたほうが実態に合います。
守秘義務条項の書きぶり
第三者への口外を禁じる条項が入ることがあります。弁護士や家族への相談まで禁じる趣旨と読むのは通常は無理がありますが、文言が広いと不安が残ります。相談先を除く旨の一文を入れてもらえないか、申し入れる余地はあります。
金額を書き込むことの重み
返済誓約書でもっとも動かしにくくなるのが、金額です。
まず、債務があることを認める行為は、法律上の「承認」にあたります。民法152条1項により、承認があると消滅時効はその時点から新たに進行を始めます。時間の経過によって請求できなくなるという見通しは、署名した時点で仕切り直しになります。
さらに、金額そのものに争いがある状態で「金○○円と認める」と合意した場合、その合意は和解としての性質を帯びます。民法696条は、和解で確定した事項については、後から違う証拠が出てきても覆さない扱いを定めています。裁判例では、争いの対象ではなく当然の前提とされていた事実に思い違いがあった場合には効力が否定された例もありますが(最高裁昭和33年6月14日判決)、これは限られた場面の話です。争点そのものとして金額を決めた以上、後から「本当は違った」と言うのは容易ではないと考えておいたほうが安全です。
ところが、会社が示してくる金額は、調査の途中段階の推計であることが珍しくありません。次のような要素が混ざっていないか、署名の前に確かめる価値があります。
- 自分が担当していなかった期間や部署の分が含まれていないか
- 他の関与者がいる場合に、その分まで一人に集約されていないか
- 実際に受け取った金額ではなく、伝票上の金額で計算されていないか
- 遅延損害金や調査費用が上乗せされていないか、その根拠は何か
なお遅延損害金の利率について、契約で定めがなければ民法上の法定利率によります。法定利率は3年ごとに見直される仕組みで、2026年4月1日から2029年3月31日までの期間も年3%で据え置かれています。誓約書に年14%などの定めが入っていれば、その利率が優先します。
連帯保証人を求められたとき
その場で親や配偶者に電話をして、連帯保証人の欄に署名してもらうよう促されることがあります。ここは特に慎重になってよい場面です。
入社時に提出した身元保証書には、法律上いくつもの制限がかかっています。個人が保証人になる場合、上限額(極度額)を定めなければ効力が生じません(民法465条の2第2項)。期間についても、定めがなければ3年、定めても最長5年とされています(身元保証ニ関スル法律1条・2条)。さらに裁判所は、会社側の監督状況や契約に至った事情を考慮して、保証人の責任の有無や賠償額を定めることができます(同法5条)。
一方、返済誓約書に付ける連帯保証は、すでに金額が特定された一つの債務についての保証です。上に挙げた制限は基本的に及びません。つまり入社時の身元保証書より、その場で書いてもらう連帯保証のほうが、家族の負担は重くなり得るという関係になります。家族の署名を求められた場合こそ、いったん持ち帰る理由があります。
賃金や退職金からの差引きに同意する条項
労働基準法24条1項は、賃金を全額支払うことを求めています。会社が一方的に損害賠償と相殺することは、この規定に反するというのが確立した理解です。
もっとも、本人が同意していれば別だとされているため、返済誓約書の中に同意条項が組み込まれていることがあります。ここで押さえておきたいのは、判例が求める同意の水準です。最高裁は、労働者の自由な意思に基づくものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在する場合に限って24条違反にならないとしたうえで、その判断は厳格かつ慎重に行わなければならないと述べています(日新製鋼事件・最高裁平成2年11月26日判決)。
したがって、聴取の直後に差し出された書面へその場で署名した同意が、後の紛争でどう評価されるかは事情次第です。争える余地が残る場合もありますが、はじめから同意していないほうが話は単純です。
なお、あらかじめ「横領が発覚したら金○万円」といった形で違約金を定めておくことは、労働基準法16条の賠償予定の禁止に触れます。実際に生じた損害を請求すること自体は別問題ですが、罰金のような形での定めには根拠がありません。
「公正証書にしよう」と言われたら
誓約書に加えて、公証役場で公正証書を作りたいと提案されることがあります。ここは他の書面と性質が大きく異なります。
金銭の支払いを目的とする請求について、債務者が直ちに強制執行に服する旨の陳述(執行認諾文言)を記載した公正証書は、それ自体が強制執行の根拠になります(民事執行法22条5号)。通常であれば、会社は訴訟を起こして判決を得なければ給与や預金を差し押さえられません。執行認諾文言付きの公正証書があると、裁判を経ずに差押えに進めることになります。
支払っていくつもりであっても、途中で収入が途絶える可能性は誰にでもあります。この段階の提案は、署名の前に専門家の目を通す価値が特に高い部類です。
署名が不利にだけ働くわけではない
ここまで注意点を挙げてきましたが、返済そのものを避けたほうがよいという話ではありません。
業務上横領は刑法253条に定められた犯罪で、罰金刑の定めがありません。刑事手続に進んだ場合、被害の弁償がどこまで進んでいるかは、起訴するかどうかの判断でも量刑でも重視されます。返済に向けた具体的な合意ができていることは、通常はプラスに働きます。
ただし、返済誓約書は刑事の示談書とは別物です。会社が用意する書面は債権回収を目的としているため、被害届を出さない、告訴しない、処罰を求めないといった刑事面の合意は入っていないのが普通です。全額を支払う約束をしても、それだけで刑事告訴されない保証にはなりません。刑事面まで含めた解決を目指すのであれば、その点を書面に落とし込む交渉が別に必要になります。
もう一点、社内で作成した書面は社内だけで完結しません。被疑者・被告人が作成した書面のうち、自分に不利益な事実を認める内容のものは、刑事裁判で証拠として扱われる場合があります(刑事訴訟法322条1項)。会社に提出した誓約書が、後の手続でそのまま出てくることは十分あり得ます。
その場で求められたときにできること
「今この場で」と促されると、断ること自体が悪いことのように感じられます。しかし、内容を確認するために時間をもらうのは正当な申し出です。会社側にも早く署名を得たい理由がある、というだけのことです。
- 持ち帰って内容を確認したい、と率直に伝える
- その場で署名しない場合でも、書面の写しか写真をもらう
- 金額の根拠になっている資料を示してもらえないか尋ねる
- 署名する場合は、金額・支払条件・期限の利益喪失・連帯保証・控除同意・清算条項の6点だけは目で追う
- 日付、同席者、やり取りの流れを自分用にメモしておく
空欄のまま署名を求められた場合は、その点だけでも指摘しておいてください。金額や支払期日が後から書き込まれる形は、争いの種になります。
すでに署名してしまった場合
署名した書面が直ちに無効になることは多くありませんが、そこで全てが決まるわけでもありません。
強く迫られて意思決定の自由が失われていた場合には強迫(民法96条1項)、前提となる事実に思い違いがあった場合には錯誤(同95条)を理由に、取消しを主張できる余地があります。ただし取消権には期間の制限があり、追認できる時から5年、行為の時から20年とされています(同126条)。また、退職の意思表示の効力が争われた事案でも、結論は事情によって分かれています。「必ず取り消せる」とは言えません。
現実的には、次のような整理から入ることが多くなります。
- 会社が主張する被害額の根拠を、資料に基づいて改めて検証する
- 支払条件の変更について、会社と交渉できる余地があるかを探る
- 懲戒処分や退職の扱いと、返済の話を切り離して考える
- 刑事手続に進む可能性がある場合に、刑事面の合意を別途組み立てる
署名済みであることを理由に相談をためらう必要はありません。むしろ、署名した書面の写しが手元にあるかどうかで、その後の見通しの立てやすさが変わります。
相談するタイミングの目安
どの段階でも相談は可能ですが、選べる手段の幅は時間とともに狭まっていきます。目安としては次の三つです。
- 署名を求められた段階 書面の内容を検討したうえで、署名するかどうか、するならどう修正を求めるかを決められます
- 署名した直後の段階 金額の根拠を検証し、条件の見直しを申し入れる余地が残っています
- 会社が刑事手続に進んだ段階 弁償の進め方と刑事弁護を並行して組み立てることになります
当事務所では24時間体制で相談を受け付けており、初回のご相談は無料でお受けしています。書面に署名する前でも、すでに署名した後でも、手元にある書面の写しをご用意のうえご連絡ください。何が確定していて何が動かせるのかを、事実に即して整理するところから始められます。


