被害者が複数いる|弁償の順序と原資の作り方
駅のホーム、改札の外、電車を降りた直後。「示談にしませんか」「ここで払ってもらえれば警察は呼びません」と言われる。あるいは反対に、被害を訴えた側が「その場でお金を渡すので、これで終わりにしてほしい」と持ちかけられる。痴漢をめぐるトラブルでは、警察や駅係員が関わるより前の数分間に、こうしたやり取りが始まることがあります。
この記事は、いままさにその数分間にいる方に向けて書いています。痴漢は行為者・被害を受けた方のいずれも性別を問わず起こり得ますので、どちらの立場でも読めるように整理しました。
先に結論を申し上げます。その場で連絡先と現金を渡す(あるいは受け取る)ことは、期待されているほど問題を終わらせない一方で、後から動かしにくいものを残すことがあります。
その場の「示談」で、実際には何が起きているのか
「示談」という言葉に、決まった手続きはない
示談は、法律上の定義がある用語ではありません。近いものとして民法695条の和解があり、当事者が互いに譲歩して争いをやめることを約束する契約と定められています。実務で示談と呼ばれるものの多くはこの和解契約にあたりますが、そう呼ばれているというだけで、中身は当事者が実際に取り決めた内容次第です。書面がなくても合意は成り立ち得ますし、書面があっても、書かれていないことまでは決まりません。
つまり、その場で交わされた「示談」が何を意味するのかは、名前ではなく、何を取り決めたかで決まります。
その場のやり取りは、おおむね4つに分かれる
| その場で起きていること | 法的な位置づけ | 後に残りやすいもの |
|---|---|---|
| 金銭を渡した(受け取った)だけで、取り決めの中身が定まっていない | 合意の内容が不明確 | 支払いがあったという事実だけ |
| 支払いと引き換えに「これで終わり」と口頭で合意した | 民事の和解契約が成立している可能性がある | 合意は残るが、その範囲があいまい |
| 日時・場所・出来事を特定した書面を作り、清算条項なども定めた | 刑事手続でも参照され得る示談 | 書面に沿った効果 |
| 支払わなければ通報する、と迫られて渡した | 示談の形をとった一方的な要求 | 支払いの事実と、要求のされ方の経過 |
駅のホームで数分のうちに成立しやすいのは、1つ目か2つ目、場合によっては4つ目です。3つ目のように内容を詰めた合意をその場で作ることは、現実にはかなり難しいと言えます。
現金を渡しても、刑事の問題は終わらないことがある
当事者の合意だけで終わる事件ではない
痴漢にあたる行為は、各都道府県の迷惑防止条例違反や、刑法176条の不同意わいせつ罪の問題になり得ます。いずれも、被害を受けた方の告訴がなければ起訴できないという類型ではありません(不同意わいせつ罪は2017年の法改正で親告罪ではなくなりました)。被害届についても、法律で定められた取下げの手続きがあるわけではありません。
示談が成立していることは、検察官が処分を決めるにあたって考慮される事情の一つです。刑事訴訟法248条は、犯罪後の情況なども考慮して起訴しないことができると定めています。もっとも、これは考慮されるということであって、支払えば手続きが自動的に止まるという意味ではありません。
「警察は呼ばない」という約束が効かない場面
その場のやり取りに、周囲の乗客や駅係員がすでに関わっていることがあります。通報するかどうかを相手方だけが決められるとは限らず、いったん警察が事実を把握すれば、当事者間の約束によって捜査が止まるわけではありません。後日、防犯カメラの映像や周囲の方の申告をもとに連絡が来ることもあります。
「その場で払えば終わる」という前提そのものが、必ずしも成り立たないということです。
一方で、民事の合意は後から動かしにくい
民法696条は、和解によって争いの対象となった事柄について、その内容で確定する効力を定めています。後から違う証拠が出てきたとしても、争いの目的とした事柄については、原則として蒸し返せないという趣旨です。最高裁も、示談当時に予想できなかった損害については後日の請求を認める一方で(最高裁昭和43年3月15日判決)、示談で対象とした範囲については合意の効力を重くみています。
その結果、その場のやり取りは、次のような非対称を生みやすくなります。
| 側面 | その場で現金を渡した(受け取った)場合に起こりやすいこと |
|---|---|
| 刑事 | 捜査や処分が自動的に止まるわけではない |
| 民事 | 支払いと合意があったという事実は残り、後から覆すのは容易でない |
刑事では思ったほど効かず、民事では思ったより残る。ここが、その場での支払いをいったん保留にしたほうがよい主な理由です。
渡す前に確かめておきたい5つのこと
1.受け取ろうとしているのは誰か
相手方本人ではなく、同行者や「代わりに受け取る」と名乗る第三者が窓口になることがあります。本人以外に渡しても、本人との間の清算にはなりません。また、報酬を得る目的で他人の示談交渉を業として行うことは、弁護士法72条が禁じています。相手方の代理人が弁護士であれば、氏名と所属をその場で確認できます。
2.相手方が未成年ではないか
相手方が未成年の場合、法定代理人の同意を得ずにした合意は、後から取り消される余地があります(民法5条)。保護者を交えずにその場で結んだ合意は、成立していないものとして扱われることがあります。
3.何が終わる合意なのか
いつ、どこで、どの出来事についての合意なのか。今後この件について互いに請求しないという清算条項を置くのか。口外しない取り決めをするのか。これらが定まらないままの支払いは、「払った」という事実だけを残すことになりがちです。
4.金額の根拠は説明されているか
精神的な苦痛に対する部分と、実際に生じた費用(衣類の汚損、通院など)は、本来は別のものです。「迷惑料」「口止め料」といった名目が混じっていると、何に対する支払いなのかがあいまいになります。金額の当否を争うためではなく、内訳を尋ねること自体は通常の確認です。
5.その場で決めなければならない理由があるか
「今すぐでなければ通報する」「次の電車が来るまでに決めて」といった形で、判断の時間が短く区切られることがあります。その期限が相手方の都合で作られたものではないか。これは、渡す前に立ち止まるための材料になります。
連絡先を渡すことの意味
身元を明らかにすることと、相手に渡すことは別
現行犯として逮捕するかどうかは、逃亡や証拠隠滅のおそれなどを踏まえて判断されます。身元が明らかであることは、その判断の材料の一つになり得ます。ただし、身分証を示せば必ず帰宅できるというものではありませんし、逆にその場を離れようとすれば、逃走ととられることがあります。
駅係員や警察官に身元を伝えることと、相手方に個人の連絡先を渡すことは、意味が違います。相手方に直接渡した連絡先は、その後の連絡や追加の求めの入口にもなります。性犯罪の事件では、その後の手続きで当事者の氏名や住所を明らかにしない取扱いがとられることがありますが、その場で交換された情報は、その枠組みの外側に残ります。
その日のうちに書き留めておきたいこと
その場で何が起きたかは、時間が経つほど再現しにくくなります。次のような点を、できる範囲で当日中に書き留めておくことをおすすめします。
- 日時と場所、乗車していた車両や降車した駅
- 相手方が最初に言った言葉と、金銭の話が出た順序
- 金額、渡した(受け取った)方法、書面の有無
- 同行者や、居合わせた方がいたかどうか
- 駅係員や警察官が関わった時刻
身に覚えがない場合
やっていないのに支払うことは、後から事実を争う道を細くすることがあります。理由は主に2つです。
1つは、支払いが債務の承認と評価される余地があることです。民法152条1項は、権利の承認によって時効が更新されると定めており、一部であっても支払いをした事実は、責任を認めたという方向で受け取られることがあります。
もう1つは、その場で書いた謝罪文やメモが、書面として残ることです。刑事訴訟法322条1項は、本人が作成した書面のうち不利益な事実の承認を内容とするものについて、証拠として用いることができる場合を定めています。取調べでの自白調書と同じ扱いになるわけではありませんが、後から「あのときは早く帰りたかっただけだ」と説明する負担は生じます。
早く終わらせたいという気持ちは自然なものです。ただ、その場で終わらせた形を作ったことが、後になって事実を説明する際の妨げになることがあります。
求め方が度を越していると感じたとき
被害を訴えること自体、賠償を求めること自体は、正当な権利の行使です。「警察に届ける」「弁護士に依頼する」と告げることも、それだけで違法になるものではありません。
他方で、権利があっても、求め方が社会通念上相当な範囲を超えれば、別の評価を受けることがあります。最高裁昭和30年10月14日判決は、権利の行使であっても、その方法が相当と認められる範囲を超えるときは恐喝罪(刑法249条)が成立し得るとしています。複数人で囲む、その場でATMまで同行させる、勤務先に知らせると繰り返す、といった要素が重なっている場合には、その場で応じるよりも、駅係員や警察官のいる場所に移るほうが安全です。
これは相手方を疑ってかかるための視点ではありません。応じ方を自分で決めるための視点です。
申し出を受けた側(被害を訴えた立場)の場合
「その場で払うので、これで終わりにしてほしい」と言われることもあります。受け取ってから考える、という順序には、次のような点が伴います。
- その場のやり取りが、後に「民事の合意があった」と主張される余地があること
- 金額の根拠を確かめられないまま、相手方が立ち去ってしまうこと
- 氏名や連絡先を確認できず、後から請求しようにも相手を特定できなくなること
- 受け取ったこと自体が、処罰を望まない意思の表れと受け取られる余地があること
受け取らないという選択も、その場でできることの一つです。損害賠償を求める権利は、その場で受け取らなかったからといって直ちに失われるものではありません。民法724条は、損害と加害者を知った時から3年(生命または身体を害する不法行為は5年)、行為の時から20年という期間を定めています。
なお、ご自身または相手方が未成年である場合は、その場で決めずに、保護者に伝えることを優先してください。
「その場では決めない」と決めておく
示談は、しないほうがよいものではありません。事実を認めている場合、被害を受けた方への謝罪と賠償は本来必要なことですし、刑事の手続きでも考慮される事情です。問題は、それを駅のホームで数分のうちに済ませようとすることにあります。
実務上は、弁護士が捜査機関を通じて申し入れ、相手方の承諾が得られた場合に限って、「弁護士限り」(本人には知らせない)という条件で連絡先が開示される、という進め方が一般的です。当事者どうしが直接やり取りをする形は、被害を受けた方の負担が大きく、交渉そのものが難しくなることもあります。
その場でできるのは、身元を明らかにすること、事実関係を落ち着いて記録すること、そして支払いと合意はいったん保留にすること。ここまでで十分です。
まとめ
その場の「示談」は、終わらせる力よりも、残す力のほうが大きく働くことがあります。刑事の手続きは当事者の約束だけでは止まらず、民事の合意は後から動かしにくい。この二つが同時に起こるのが、その場で連絡先と現金を渡すという行為です。
最後に、立場を問わず避けておきたい対応をまとめます。
- 内容が定まらないまま現金を渡す、または受け取る
- その場で謝罪文やメモに署名する
- 相手方本人以外の第三者に金銭を渡す
- 求めに応じてATMまで同行する
- 書面も記録も残さないまま、その場を離れる
その場で判断を求められている状況では、落ち着いて考える時間そのものが確保しにくくなります。判断に迷う場面では、弁護士に相談したうえで進め方を決めることもできます。当事務所では初回のご相談を無料でお受けしています。


