「結婚詐欺だ」と損害賠償を請求されたときの対処法
「独身だと聞いていた」「結婚も考えていた」——そう信じて関係を続けていた相手が、実は既婚者だった。しかも、その間に妊娠していた。
このようなご相談では、「請求できるかどうか」という段階を越えて、「いくら請求できるのか」が切実な問題になります。中絶や出産には現実に費用がかかり、体への負担や、その後の生活への影響も残るからです。
このコラムでは、既婚であることを隠されたまま性的関係を持ち、妊娠に至った方が、相手本人に対してどのくらいの慰謝料を請求しうるのかを、金額の決まり方に絞って整理します。だまされた側が男性であるケース(相手の女性が既婚であることを隠していた場合)も、基本的な考え方は共通です。
1.「相場」の数字を先に探しても、答えは出にくい
「貞操権侵害 慰謝料 相場」で検索すると、法律事務所のサイトによって示される金額はかなり異なります。50万円〜200万円としているところ、150万円〜300万円としているところ、数十万円〜300万円としているところなど、幅の取り方がまちまちです。
数字がそろわないのには理由があります。交通事故のような算定基準表が存在せず、個別の事情を総合して判断される類型だからです。同じ「既婚を隠されていた」という出発点でも、交際の中身、うその悪質さ、そして被害の内容によって、結論は大きく変わります。
さらに、貞操権侵害の慰謝料は、配偶者から不貞相手に請求する不貞慰謝料(おおむね100万円〜300万円が目安といわれます)より低めに収まりやすい傾向があると説明されることが一般的です。婚姻共同生活という強く保護された関係が侵害されたわけではない、という整理によります。
そのため実務では、「相場はいくらか」よりも、自分の事案にどの加算要素があり、どの減算要素があるかを積み上げて考えるほうが現実的です。以下では、その積み上げ方を見ていきます。
2.前提として、そもそも貞操権侵害にあたるか
貞操権とは、**誰と、どのような性的関係を持つかを自分で決める権利(性的自己決定権)**を指す言葉です。民法に定義規定はありませんが、これを侵害する行為が不法行為(民法709条・710条)にあたりうることは、最高裁昭和44年9月26日判決以来、古くから認められてきた考え方です。
大づかみには、次の3点が問われます。
- 性的関係があったこと(プラトニックな交際にとどまる場合、貞操権侵害としては問題になりにくい)
- うそによって、関係を持つかどうかの判断がゆがめられたこと(既婚であることを積極的に隠した、独身だと明言した、など)
- 相手方の行為の悪質性が、自分の側の落ち度を上回ると評価できること
この「請求できる条件」そのものについては、別コラム〈既婚を隠されて交際|だまされた側が慰謝料を請求できる条件〉で詳しく扱っていますので、本稿では金額の話に進みます。
なお、男女どちらが請求する側であっても、貞操権が保護される点に違いはありません。相手の女性が既婚であることを隠していた場合も、同じ枠組みで検討することになります。
3.妊娠は、金額をどう動かすか
妊娠・中絶・出産は増額方向に働きやすい
貞操権侵害の慰謝料を検討するとき、妊娠したこと、中絶に至ったこと、出産したことは、金額を引き上げる方向の事情として考慮される、というのが実務上の一般的な理解です。複数の法律事務所の解説でも、妊娠・中絶は増額事由として挙げられています。
理由は明快で、うそによって奪われたものが「関係を持つかどうかの判断」にとどまらず、身体への侵襲や、その後の生活の変化として具体的に現れているからです。中絶にせよ出産にせよ、心身の負担は一方に偏って生じます。
増額に働きやすい具体的な事情
- 妊娠・中絶・出産に至っていること(回数が重なればより重く見られやすい)
- 中期中絶など、母体への負担が大きい時期の処置になったこと
- 中絶後や出産後に、心身の不調が続いていること
- 交際期間が長い、同棲・半同棲があったこと
- 結婚の具体性があったこと(プロポーズ、両親への紹介、指輪、式場の検討など)
- うその態様が周到であること(独身証明が必要な婚活サービスへの登録、家族の存在を示す痕跡の徹底した隠蔽、複数の相手への同様の行為など)
- 発覚後の対応が不誠実であること(連絡を絶つ、話し合いに応じない、事実を否認し続ける)
- 妊娠を告げた後に態度が一変し、話し合いを避けたこと
実際の判断例
2025年12月8日、東京地方裁判所は、既婚であることを隠して交際し多数回の性交渉に及んだ男性について、貞操権を侵害する故意の不法行為にあたると認め、慰謝料110万円を含む総額約150万円の支払いを命じました。原告の女性は、マッチングアプリで「既婚者お断り」の意向を示したうえで、婚姻歴を確認していたという事案です。男性側の「真剣交際ではなく性交渉に及ぶだけの関係だった」という反論は、客観的な経緯からみて婚姻の可能性を前提とした交際だったとして退けられています。
同じ2025年には、独身限定の婚活アプリで独身と偽ったケースについて、大阪地方裁判所が55万円の賠償を命じたことも報じられました。
これらはいずれも妊娠を伴わない事案です。**妊娠・中絶・出産が加わった事案では、これより高い水準の判断がなされている例もあります。**将来の結婚を約束したまま既婚であることを告げずに交際を続け、2度の中絶と1人の出産を経た事案で、500万円台の賠償が命じられた裁判例が紹介されています。
もっとも、これは事情が重なった例外的な事案として位置づけられるもので、妊娠すれば同水準になるという意味ではありません。また、2025年の各判決はいずれも第一審の判断であり、上級審の判断が示される可能性がある点にはご留意ください。
4.請求できるのは慰謝料だけではない
妊娠が絡む事案で見落とされやすいのが、慰謝料以外の項目です。
法テラスは、単なる恋愛関係であれば原則として相手に責任追及はできないとしたうえで、相手方が積極的に騙すなどして肉体関係を結んだ場合には、貞操権や性的自己決定権、人格権の侵害として不法行為が成立し、損害賠償として中絶費用や出産費用を請求することができると説明しています。
前述の2025年12月の東京地裁判決でも、認められた約150万円のうち慰謝料は110万円で、残りは発覚後に生じた治療費や、相手方を特定するための調査費用でした。損害は慰謝料に限られないという点は、請求額を組み立てるうえで重要です。
| 請求できる可能性のあるもの | 内容 | 位置づけ |
|---|---|---|
| 慰謝料 | 精神的苦痛に対する賠償 | 不法行為に基づく損害賠償 |
| 中絶費用・出産費用 | 手術費、入院費、検診費など | 同上(領収書等の資料が前提) |
| 治療費・通院交通費 | 発覚後に生じた心身の不調の治療 | 同上(因果関係の説明が必要) |
| 収入減少分 | 就労が困難になったことによる損害 | 同上(認められる範囲は限定的) |
| 調査費用 | 相手の身元や婚姻の有無の調査に要した費用 | 同上(必要かつ相当な範囲) |
| 認知・養育費 | 子と父との法律上の親子関係、子の扶養 | 損害賠償とは別の枠組み |
最後の行が特に大切です。認知と養育費は、だまされた側の損害賠償請求とはまったく別の制度で、子ども自身の権利にかかわる問題です。出産する場合には、慰謝料の交渉とは切り分けて検討する必要があります。認知の手続きや養育費の考え方については、別コラム〈不倫相手との妊娠|認知・養育費・中絶をめぐるトラブル〉で扱っています。
5.逆に、金額が下がりやすい事情
一方で、次のような事情があると、金額が抑えられたり、請求そのものが認められにくくなったりします。
- 気づける事情があったのに確認しなかった——生活の様子から家庭の存在がうかがえた、共通の知人に確認できたのにしなかった、など。マッチングアプリの利用者にも相応の注意が求められるとして、慰謝料が低額にとどまった裁判例も紹介されています。
- 既婚だと知った後も関係を続けた——この場合、その時点以降は「だまされていた」とは評価されにくくなります。
- 結婚を前提とした交際とはいえない関係だった——割り切った関係、対価を伴う関係などは、判断が分かれやすい領域です。
- 金銭の授受があった——関係の性質の評価に影響することがあります。
- 妊娠後の話し合いに、相手が一定程度応じていた——費用の負担や協議に応じていた事情は、金額を抑える方向に働きえます。
「相手が悪いのだから高額になるはずだ」と考えたくなる場面ですが、裁判所は当事者双方の事情を見ています。事前に弱点を把握しておくことが、交渉を進めるうえでは有利に働きます。
6.金額を左右するのは、結局のところ証拠
金額は、主張の強さではなく、裏づけられた事実の総量で決まります。妊娠が絡む事案では、次のような資料が特に意味を持ちます。
- 独身だと述べたことがわかる記録(メッセージ、プロフィール、通話の内容メモ)
- 結婚を前提とした交際だったことがわかる記録(将来の話、両親への紹介、指輪や住まいの検討)
- 妊娠・中絶・出産に関する医療記録と領収書
- 妊娠を伝えた前後のやり取り(相手の反応がわかるもの)
- 心身の不調について、医療機関にかかった記録
- 既婚だと知った時期と、その後の対応がわかるもの
相手をブロックする前に、やり取りを保存しておくことを強くおすすめします。感情の整理としては消したくなる記録が、後で金額を支える証拠になります。反対に、無断でのスマートフォンの閲覧や録音など、収集方法自体に問題がある証拠は、かえって不利に働くおそれがあります。
請求の進め方は、証拠の整理 → 任意の交渉 → 内容証明郵便による請求 → 調停・訴訟、という流れが基本です。時効は不法行為の規定により、損害と加害者を知った時から3年、行為の時から20年です(民法724条)。妊娠が絡む事案では、出産や治療の対応に追われて時間が経ちやすいため、期間の管理には注意が必要です。
7.請求する前に知っておきたい3つのリスク
貞操権侵害の請求には、請求する側にも注意すべき点があります。
(1)相手の配偶者から不貞慰謝料を請求されうる
だまされていたことが認められれば故意・過失が否定される余地がありますが、既婚だと知った後も関係を続けていた場合には、その期間について請求を受ける可能性があります。この点は別コラム〈「独身だと思っていた」場合は慰謝料を払わなくてよい?〉で扱っています。
(2)SNS等での公表が、名誉毀損と評価されることがある
被害を受けた側がインターネット上で経緯を公表したところ、相手方からの反訴が認められ、賠償を命じられた事案が報じられています。事実であっても、公表の仕方によっては法的責任を問われうるという点は、押さえておくべきところです。
(3)行き過ぎた取り立ては、別の問題を生む
勤務先や家族に知らせると告げて支払いを迫るような対応は、恐喝罪(刑法249条)や脅迫罪(同222条)の問題になりかねません。正当な権利行使であっても、方法を誤ると立場が入れ替わってしまいます。
8.まとめ
- 貞操権侵害の慰謝料に確立した算定基準はなく、公表されている「相場」は幅の広い目安にすぎません。
- 妊娠・中絶・出産は、金額を引き上げる方向に働きやすい事情として考慮されるのが一般的です。
- ただし、請求できるのは慰謝料だけではありません。中絶費用・出産費用・治療費・調査費用なども損害として構成しうるため、項目を分けて積み上げることが大切です。
- 認知と養育費は損害賠償とは別の枠組みであり、切り分けて検討する必要があります。
- 気づけたはずの事情や、発覚後の交際継続は減額方向に働きます。金額は最終的に証拠の量で決まります。
「いくらもらえるのか」は、事情を一つずつ確認しなければ答えの出ない問いです。ご自身の事案でどの要素が加算に働き、どの要素が弱点になるのかを整理するところから、お手伝いできればと思います。


