上町断層帯の危険な兆候
通れそうな道を右に左に走っていると、また43号線に出てしまった。場所は深江浜付近だったと記憶している。だがどうも風景が違って見える。100m程走って自分でもびっくりするほどの声を上げてしまった。目をこらしてじっと闇の中を見ていると高速道路が横倒しになっている。柱脚がことごとくなぎ倒されている。どうもこうも表現しようの無い眺めだった。普通に高速道路の下を走っているときは、見慣れているけど倒れた道路の巨大なこと。
以前、太平洋戦争戦争で、航空母艦「瑞鶴」の最後を目の前で見た大工の棟梁の話を思い出していた。「航空母艦が転覆したら丁度こんな風景かな」なんて一人でつぶやいて爽快感ともヤケクソとも言いようの無い感情が込み上げてきた。
後日コンクリートの中から空き缶や木切れが出てきて問題になったが、その程度の問題は想定の範囲内の話しだ。工学は経験値がモノを云う世界で、過去にこれだけの災害や、施工ミスがあったから、安全値をこの辺にしようと云う感じで、安全値を想定する。つまり、想定外の災害には工学は全く無力なのだ。
東日本大震災以降、減災・防災の観念が生まれたが、阪神大震災当時は減災・防災と云う観念は無かった。その為どうしても、行政の対応を後手後手に回ってしまう結果となった。
しばらく走っていると西の空が赤く染まっているのが見えてきた。三宮を過ぎて兵庫辺りまで来ると火災の炎が肉眼ではっきり見ることが出来た。今までに何度か火災現場を目撃したことが有るが、町単位での火災は初めての体験だ。依然として渋滞がひどい。
道の両サイドの建物が燃えている。ボンネットに火の粉が雪の様に落ちてくる。誰かの車のゴソリンに引火したら…。燃えている建物が崩れてきたら…咄嗟の出来事に対応出来る様シートベルトを外した。
火事の輻射熱で顔が暑い。冬にも関わらずクーラーを入れた。やっとの思いで長田付近まで来たが、渋滞でいよいよ車が動かなくなった。
近くにたまたま警官がいたのでこの先の様子を聞いた。消火作業に海水を使用しているため消防ホースが43号線を横断しているので、この先で道路封鎖しているとのこと。
須磨まで行くには火災の一番激しい処を抜けて、一旦北上し大きく迂回しながら須磨に出る道を探せとのこと。ここまで来たら行くしかない。車を北に向けてノロノロと走り出した。JR高架付近まで来ると今度は自警団風の人が道路を封鎖している。先ほどこの先で走行中の車が引火して路上で炎上しているとのこと。
この道を突き切るのは自殺行為だからやめろと言う。引き返して一旦東へ向かいさらに大きく迂回しなければならない。渋滞を考えるととても出来ない。
車を歩道に乗り上げ通行車両や避難人の邪魔にならない様注意して止め、歩いて須磨に行くことにした。
しばらく火の海の中を歩き回っていると母親から聞いた太平洋戦争当時の神戸空襲の話を色々思い出した。
母が湊川神社の近くで空襲に合い、焼夷弾や機銃掃射に追っかけまわされながら防空壕へ飛び込んだ話や、三宮の高架の下で焼夷弾によって焼かれた米俵で暖を取ったりした話や、麻耶山に設置されていた、高射砲がとても優秀で探照灯でB29の胴体に照準を合わせ、弾が当たると胴体と主翼がバラバラになるように落とした話を何度も聞かせてくれた。
そんな空襲の光景が今度の震災とだぶって見える。母も50年前これと同じ景色を見たのだろうか…鷹取付近まで来ると建物は焼き尽くされていて原型をとどめている物は殆ど無かった。炎はあちこちでチリチリと燃えている。風が吹くと稲穂がそよぐ様に地面をなめてくる、須磨も燃えているのか気が焦った。
若宮ランプを北上すれば叔父の家だ。この辺の橋脚もことごとく圧壊している。木造の叔父の家なんて原型が残っているとも思えない状況だが、付近を流れる数本の河川のおかげで類焼だけは免れている様子だ。
依然として辺りは真っ暗で時々通る車のライトを頼りに歩いていた。時間はもう10時を過ぎている。叔父の家まで数十メートルまで迫った時、建物の形を留めていない固まりが目に入って来た。叔父の家の辺りだ。
目から涙が溢れてきた「叔父貴、叔父貴、叔父貴」うわごと様につぶやきながら駆け出していた、こけつまろびつしながら家に近づくと、辛うじて叔父の家は建っていた。
北隣の鉄骨3階建てのアパートが道路の方へ倒壊したのが、叔父の家に見えたのだ。叔父の家は数年前に防音対策工事をしており外壁が2重になっていた。結果的に外側の壁が古い壁を包む様にしていた為、倒壊を免れたのだ。まわり3方の家はことごとく倒壊している。叔父の家に飛び込み声を限りに叫んだ「叔父貴!!」返事が無い。しかし生存していると直感した。階段が落ち壁が崩れ落ちているが、それを片づけた形跡があった。こんな状況で家人以外誰が家を片づけるだろう、これは生きている。
学校か区役所かどこかに避難している。そう考えて、坂の下にある小学校へ向かう。小学校も真っ暗闇だったが人でごったがえしている。校庭は臨時駐車場の様になっていて車の中で一夜を明かす人もいるようだ。叔父の名前を叫びながら教室を廻ったが返事が帰ってこない。よし区役所だ。学校を飛び出した時、携帯電話が鳴った。
声の主は妻からだが電波状態が非常に悪い。何を言っているのか全然判らない、多分携帯電話の中継所も被災しているのだろう。電気も無いはずだからここで通話出来たのが不思議なくらいだ。受話器の向こうで大声で何か叫んでいる。途中で途切れてしまったが数分後また掛かってきた。今度は前より鮮明に聞こえる。叔父の消息が判ったとのこと。
西神ニュータウンにいる従兄弟の家に夫婦そろって避難していたのだ。電話が不通でどうしても連絡がとれず公衆電話を数時間並んでやっと知らせて来たとのこと。急に体中の力が抜けていった。さあこれからどうして奈良に帰ろう。この時ここに来た事を最も後悔した。
救援物資を叔父の家の玄関に置いて、とぼとぼと来た道を戻り始めた。戦国時代の小説を読んでいると攻略戦より撤退戦の方が遥かに難しいのが判る。続いている余震や火事、暴動等人的災害それより一番現実的な渋滞問題考え出したら気の滅入ること滅入ること。小一時間程かけて車迄たどり着くと、横の家が燃えていた。もう10分でも帰るのが遅れていたら車も燃えていただろう。ドアの取手が熱くて触れなかった。
来た道をまたノロノロと帰り始めた。路面が波打っていてとてもスピードを出せない。反対行きの交通量は思ったより少なかっのでその分辺りの景色が良く見えた。公園や空き地は人で埋まっている。テントも張ってある。倒壊を免れた家の人たちもいつ襲うかわからない余震の恐怖で家に入れないでいるのだろう。
みんな今日は何処で寝るのだろう、食事は、トイレは、風呂はどうするのだろう、これから昨日までの神戸に戻るのに何年かかるのだろう・・・
つづく・・・
【第一話】
http://mbp-japan.com/osaka/oado/column/18364/
【第二話】
http://mbp-japan.com/osaka/oado/column/18444/
【第三話】
http://mbp-japan.com/osaka/oado/column/18460/
【第五話】
http://mbp-japan.com/osaka/oado/column/18622/