レッスンは自我を捨てていくこと
時間が育むもの
自分が出来るようになりたいこと。
一生懸命練習して
何となくはできるようになっても
確実にいつでもできるようにはならなかったり
体の可動域がなかなか伸びなかったり
体の歪みがあるままだったり
自分の場合はこんなものかと
諦めたり、
こういうものなんだと見極めたり・・
それまでの努力は無駄なのか?
ずっと続けていても意味がないのか?
それは違うと思う。
「できない」
「伸びない」
と思う時点では、目に見える形では
出来ていないかもしれないし
伸びて見えないかもしれない。
だが、やってみたことが伸びる方向や出来る方向でなかったにしても
やってみなければ、それではいい方向に行かないと言うことがわからない。
では、よくなる方向を考えようと思うきっかけができる。
よくなっていくということは
一見無駄に見える段階を含んでいるが
それは無駄か?と言えばそうではないと思う。
折れ線グラフのように上に行ったり、下に行ったりしながら
少しずつは上がっている。
ガクンと驚くほど下がる時は、諦めてやらなくなるとき。
それでも、頭を切り替えて
別のことをやっていて
これができるようになりたいと思っていたことを忘れかけた時
気付いたら出来るようになっている、ということもある。
一見、全くうまくなっていないように見えても
できるようになる要素を溜めたグラスには、少しずつ準備がされていたりする。
努力していることは無駄にはならない。
頭がカチカチになりながら
吊り上げた目が一方向にしか行かない時にはうまくいかない。
努力しながらも、のめりこんでいないゆとりのようなものがいる気がする。
それほど出来ているように見えなくても
面白がって楽しんでしている時には
勢いがあり、
月日が経つと、安定して出来ていることが多い。
視野が広がっていくには時間がかかる。
グラスに要素がたまっていく時間がいる。
密な時間で多くを得ることもあるが
それで得たものは、グラスに貯める要素の一つ。
それがグラスをすべて満たす時期にある人もあれば
まだ満ち足りない人もある。
それぞれの時間の経過がある。
山の頂上の景色は格別だろうが
途中の険しい傾斜も流れの強い川を渡るのも
頂上に登る為の時間の経過のうち。
そのどこにもきつさはあるが、後で思えば
楽しいこともたくさんある。
時間が育んでくれるまで
きつい思いだけを考えるよりは
できれば、なかなか思うようにならなくても
小さな「できたこと」を楽しんで過ごしていくのが
どの段階も輝いてくる。
ああ、もう嫌だなと思っても
どれも自分を育む時間のうち。