固定概念を捨てる
激励と叱咤の間
教える側と教わる側も立場の違いや最終目標の違いがあっても
そこで行われることを大事に共有している。
特に教える側は教わる人にとっては絶対的な存在になりやすく
好む、好まないにかかわらず、与える影響が大きい。
何を大事にするかを持っておかなくては伝えることがぶれてくる。
自分自身のことで言えば
出来る限り、体が気持ちよく反応できる状態になってもらいたい。
自分自身が伝えたいことが自然に受け入れてもらえる状態になりやすい空気を作りたい。
しかし慣れあいや甘えがでるのも困る。
体が大まかな動きから、少しずつ繊細な動きが出来ていくのと同じく
心の方も自然に微調整できるゆとりのあるレッスンにしたい。
大人でも来れば何とかなると、精神的に頼りきりになってしまう人もあれば
試行錯誤しながら、言われたことを濾過して自分に置き換えることができる人もある。
こちらも方向性は変わらなくても、人によっては微調整しながら進めていく。
注意することと怒りにまかせて吐露することは違う。
一生懸命になるあまり、本来伝えることとはかけ離れた言葉が出てくると
相手は傷つく。
これは生徒として経験しているが、教える側もいつもフラットではない。
いつもなら出てきそうもない言葉に傷ついても
後で生きることもある。
誰でも嫌なことを言われたくはないが、こういう意味だったのだと気付くこともある。
教える方も教わる方も同じ人間であれば
思いがけない言葉が出てくることもある。
いつも怒りにまかせた言葉が出てくるのは困るが
激励ととらえるか叱咤されたととらえるか
これもお互いの信頼関係による。
ずっと同じ先生の指導を受けているのは、その先生に魅力があるからだろう。
あらゆる人間関係と同じく、その人を知る中でのすべてを含んで
その人のいいところ、よくないところも総合して、その人といる訳である。
優しい言葉もきつい言葉も、同じ人から出る。
どんなに厳しいことを言われる先生でも、意地悪したくて言う人はいない。
その人を良くしたくて出る言葉なのだ。
自分自身が今よりよくなりたくて行くのであれば
その人すべてを含んで出る言葉を前向きにとらえた方が建設的である。
捉え方で言葉は生きる。