新しい一歩を踏み出す―一人暮らしの30代女性のための充実した日常
目次
「あの時、もっと話を聞いていれば。」
「何か変だと気づいていれば。」
「止めていれば。」
大切な人を失ったあと。
この「あの時」が、
何度も戻ってくることがあります。
あの日に戻れたら。
あの場面で声をかけていたら。
もう一度だけ、
「大丈夫?」と聞いていたら。
そして始まります。
もし、あの時。
もし、あの場所で。
もし、もう少し。
……「もし」の大安売り。
いくら並べても、
過去の値段は変わりません。
それでも、やめられない。
なぜなら、
今の自分は、
結果を知っているからです。
過去の自分に、今の答えを持たせてはいけない。
「あの時、こうしていれば。」
後からなら、
いくらでも言えます。
あの時は知らなかったこと。
気づかなかったこと。
・・・今になって、
わかっていること。
それを全部知った状態で、
「どうして気づかなかったの?」
と、昔の自分を責める。
いや。
その時の自分、
まだ結果を知らないんです。
なのに今の自分は、
答え合わせを終えた状態で参加している。
そりゃ、
過去の自分は不利です。
後出しジャンケンどころか、
答えを見ながら試験を採点している。
しかも採点者も自分。
容赦がありません。
「止められなかった」と、「何もしなかった」は別の話です。
「大丈夫?」そう聞いた。
「大丈夫。」そう答えた。
だったら、
その言葉を信じることもあります。
いつも通りに見えた。
普通に話していた。
笑っていた。
だから、
いつも通りだと思った。
それは、
おかしなことではありません。
家族でも。
親しい友人でも。
長い付き合いでも。
相手の中で何が起きているのか、
全部わかるわけではない。
心の中が見える
透視能力もありません。
残念ながら、
標準装備ではありません。
それなのに。
何かが起きたあとになると、
「もっとできたはず。」
「気づけたはず。」
「私が止めるべきだった。」
と、過去に戻ってしまう。
でも。
戻ったところで、
その時の自分が持っていた情報は変わりません。
「ごめんね」を、終身刑にしなくていい。
もちろん。
「あの時、止められなかった。」
そう思う気持ちは、
簡単にはなくならないでしょう。
大切だったから。
悔しいから。
「何かできたんじゃないか」と思ってしまう。
それは、
仕方のないことなのかもしれません。
でも。
その「ごめんね」を、
自分への罰にしなくていい。
「あの時、できなかった。」
これは、変えられない。
でも、
「だから私が悪い。」は、
同じ意味ではありません。
ここをごちゃ混ぜにすると、
ずっと苦しくなります。
「あの時こうしていれば。」
そう考えることと、
「私が悪かった。」
と決めつけることは別の話。
もし、また会えるなら。「謝る」のは、どちらでしょう。
仏教には、
いろいろな考え方があります。
死んだあと、
どうなるのか。
どこへ行くのか。
何が正しいのか。
私は、その答えを知りません。
ただ。
もし、
いつかどこかで、
また会えるのなら。
「あの時、気づけなくてごめん。」
そう言うこちらに、
「もういいって。」と笑ってほしい。
「そんなに気にしてたの?」
なんて言いながら。
ちょっと照れくさそうに頭をかいて。
「まあ、あの時はいろいろあったけどさ。」
そう言って笑う。
そんな再会なら、いいなと思います。
そして。
もしかしたら。
謝るのは、
こちらだけじゃないのかもしれません。
「心配かけて、ごめん。」
「迷惑かけて、ごめん。」
「いろいろ置いていって、ごめん。」
そんなふうに、
向こうからも言ってくれるかもしれない。
だったら。
こっちも、
「もういいよ。」と言いたいね。
忘れなくていい。でも、あの日に住み続けなくていい。
過去には戻れません。
あの日をやり直すこともできません。
だから。
忘れなくていい。
悔しさも、
無理に消さなくていい。
ただ。
「あの時、止められなかった。」
その一言を、
何年も自分への判決にしなくていい。
あの時の自分は、
未来を知らなかった。
今の自分が持っている答えを、
過去の自分にまで
持たせなくていい。
「あの時は、できなかった。」
いつか、
そう言える日が来たら。
それは、
忘れたということではありません。
許したということでもない。
ただ。
ようやく、
あの日から一歩だけ、
離れられたということ。
それでいいんじゃないでしょうか。
「あの時、止められなかった。」
その言葉を何年続けますか?



