家を出た瞬間、思い出すのは忘れ物
山の中を走る一本の道。
近づいてみると昔の線路跡。
電車はもう走っていません。
駅もありません。
役目は終わりました。
・・・本当に?
( ̄▽ ̄;)
「終わった」と決めるのは早い
その線路を見ていた人が、
こんな提案をしていました。
「廃線をサイクリングロードにしたらどうだろう。」
なるほど。
線路としての役目は終わっても、
道としての役目は始められる。
誰かが言っていました。
「廃線をサイクリングロードにしたらどうだろう。」
その瞬間、
頭の中に景色が浮かぶ。
親子で自転車をこぐ人。
駅舎だった建物でソフトクリームを食べる子ども。
昔は改札だった場所で、
「自転車はこちらでーす。」
なんて声が聞こえてくる。
・・・電車はなくなった。
それでも、人はココに戻ってくる。
なんだか、
ちょっと面白い。
そう考えると、
廃線は「終わった場所」ではありません。
使い方が変わっただけの場所になる。
『もういらない』が早すぎる
ここで思ったこと。
人って、
使わなくなった瞬間に、
「もう価値がない。」
と決めるのが早すぎる。
着なくなった服。
読まなくなった本。
閉店した商店街。
古い家。
昔の仕事。
そして、
・・・昔の自分。
全部まとめて
「終わったもの箱」に放り込みます。
終わったんじゃない
でも、
本当に価値はなくなったんでしょうか。
古民家はカフェになる。
工場は美術館になる。
学校は宿泊施設になる。
そして、
線路は自転車道になるかもしれない。
役目が変わっただけで、
価値は消えていません。
むしろ、
前より必要とされることだってある。
人間も同じ
これ、
人にもよく似ています。
転職した人。
定年を迎えた人。
子育てを終えた人。
病気で働き方が変わった人。
「もう終わり。」
そう思った瞬間から、
可能性まで捨て始める。
人生って、
意外と廃線に似ている。
「もう終わった。」
と思っていたら、
誰かが勝手にサイクリングコースにしてしまう。
人だって、案外そんなものかも。
だからこそ、
人生ってのは、
廃線みたいなものかもしれません。
今までと同じ電車は走らない。
だけど、
違う景色を見に行く道にはなれる。
最後に
人は、
何かを失ったときより、
「もう価値がない」と決めたときに全てを失う。
人間って不思議。
現役のときは見向きもしないのに、
なくなった瞬間、
「残しておけばよかった。」
と言い始める。
・・・価値って、
物の中にあるんじゃなくて、
自分の都合の中にあるのかもしれません。



