社員が何も言わなくなる理由は4種類ある

さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはいけない人がいます。
国の未来を真剣に考え、
そのために行動し続けた人物。
しかし、その評価は今も分かれています。
ある人は愛国者と呼び、
ある人は危険な思想家だったと語る。
今回は、
福岡市出身の国家主義者、
内田良平(うちだ りょうへい/1874年~1937年)のお話です。
日本の未来を考え続けた青年
内田良平は1874年、
福岡の士族の家に生まれました。
明治維新によって日本は大きく姿を変え、
国全体が新しい時代へ向かっていた頃です。
若い頃から国際情勢に関心を持ち、
日本がこれからどう生き残るべきかを考えるようになりました。
当時の日本は、
欧米列強の圧力にさらされながら近代国家への道を進んでいました。
そして内田良平は、
日本を含めたアジア全体の将来に目を向けていたのです。
黒龍会をつくり、時代の最前線へ
1901年、
内田良平は黒龍会を設立します。
当時のロシア帝国は東アジアへの進出を強めており、
多くの日本人が危機感を抱いていました。
内田良平もその一人でした。
日本が独立を守るためには、
アジアで存在感を持たなければならない。
そう考え、
政治や外交に強い影響を与える活動を行います。
玄洋社の創立者の1人。
現在に続く国家主義(右翼)の源流といわれています。
また、中国革命の指導者である孫文を支援したことでも知られています。
中国の近代化や独立運動を後押しし、
アジアの未来を変えようと動き続けました。
信念を貫いた先に残ったもの
ところが、
内田良平の名前を語る時、
必ず出てくるのが日韓併合です。
内田良平は日本と朝鮮の合邦を推進しました。
当時の本人は、
それがアジアの安定や発展につながると信じていました。
ですが現代では、
その考え方に強い批判もあります。
つまり内田良平は、
亡くなった後に、評価が分かれる人物になったのです。
内田良平は、
自分なりの理想を信じて動いた人でした。
何かを私利私欲のために行ったわけではありません。
それでも、後世の人々は同じ結論にはなりませんでした。
時代の正しさは変わっていく
私たちは歴史を見る時、
「あの人は正しかった」
「あの人は間違っていた」
と結論を出したくなります。
ですが歴史を振り返ると、
その時代にはその時代の常識があります。
内田良平が生きた時代には、
多くの人が同じ方向を向いていました。
それが国のためだと信じていたのです。
そして今の私たちにも、
今の常識があります。
SNSでは、
誰かが問題を起こせば、
瞬く間に大勢の人が集まります。
批判が必要な場面もあるでしょう。
ですが、
気付けば個人攻撃になり、
家族まで巻き込み、
終わりのない非難へ変わることもあります。
その時、
多くの人は自分を悪人だとは思っていません。
「正しいことをしている」
そう信じています。
だからこそ、
時代の空気は時として強い力を持ちます。
編集後記
この金曜日の偉人伝を書きながら、
ブログとしてアップすることをためらうのは政治がらみ。
書きにくい偉人も意外と多いもの。
・・・ですが、それも含めて福岡の文化。
100年前の人たちを見ていると、
「なぜそんなことをしたのだろう」
と思うことがあります。
ですが、
100年後の人たちが今の私たちを見たら、
同じことを思うのかもしれません。
当時の人たちには当時の常識がありました。
そして私たちにも、
今の常識があります。
怖いのは、
それを常識なんだと思い込むことです。
周りがみんな同じことを言っていると、
疑うこと自体が難しくなる。
内田良平が生きた時代も、
私たちが生きる時代も、
そこはあまり変わらないのかもしれません。
歴史を学ぶ意味は、
昔の人を裁くことではなく、
- 自分が当たり前だと思っていることは、本当に当たり前なのか。
- 周りと同じ意見だからといって、思考を止めていないか。
- 誰かを批判するとき、自分の品位まで失ってはいないか。
今の自分を見つめ直すこと。
そんな問いを持ち続けることが、
歴史から学ぶということなのかもしれません。
だからこそ、
内田良平が残したのは功績だけではありません。
「あなたは、自分の正しさを疑えますか?」
という問いもまた、
私たちに残したのではないでしょうか?


