福岡の偉人:中間市 日本映画を代表する俳優・高倉健の生き方

さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはならない偉人伝。
毎週金曜日のお約束。
今日は、派手さではなく“結果”で評価され続けた人物。
福岡県北九州市出身、
江藤慎一(えとうしんいち/1937年~2008年)のお話です。
目次
病弱で、野球ができなかった少年
後に“闘将”と呼ばれる江藤慎一。
ですが、子どもの頃はまったく逆でした。
気管支が弱く、ジフテリアを発症。
そのことで運動は禁止。
体育の授業も見学。
外で体を動かすことすらできない。
いわゆる「野球少年」とは、ほど遠いスタートだったようです。
貧しさの中で身についたもの
江藤慎一の家庭は、子どもが多く貧しい暮らし。
小学生の頃から新聞配達を始め、
毎朝150軒を回る。
これは生活のためでもあり、
結果的に足腰を鍛えることにもなった。
だからこそ特別なトレーニングではなかった。
日常生活の延長で体ができていった
と、インタビューで答えてました。
捕手を選んだ理由が異質
野球を始めた江藤慎一は、あえて捕手を選びます。
きっかけは、試合中の事故。
本塁を守った捕手が、プレー直後に倒れ、そのまま亡くなる。
それを目の前で見たことから。
普通なら避けるポジション。
それでも江藤慎一は選択しています。
「一番きついところをやる」
この選択が、後の性格を象徴しています。
進学を捨て働く選択
高校では注目され、大学からの誘いもあった。
それでも進学しなかった。
それは家族を養うため。
弟たちを進学させるために、
自分は働く側に回る。
ここで“将来の選択肢”よりも
“今の現実”を優先している。
社会人野球という下積み
江藤慎一はプロにすぐ行かず社会人野球へ。
日鉄二瀬に入るも、最初はレギュラーではない。
肩を痛め、野球を辞めようと考えた時期もある。
実際、自衛隊に行こうと考えていたほど。
野球人生は順調どころか、
普通に挫折しかけている時期もあるわけです。
それでも残ったのは“打てる”という一点
転機は2年目。
打撃が結果として出始める。
そこから評価は一気に打てる選手かどうかの選手となっていきます。
守備でも走塁でもない。
打撃。
ここに価値が集約されていく。
プロ入り役割が固定する
中日ドラゴンズに入団。
チーム事情もあり、
江藤慎一に求められたのは明確でした。
「打つこと」
とはいえ、それ以外での評価は大きくない。
だからこそ、
打撃を伸ばす
打撃で結果を出す
この一点に寄っていく。
結果、首位打者・本塁打王・打点王。
さらに、セ・パ両リーグで首位打者を獲得。
実力は、当時の王や長嶋と比較されるレベルでした。
順風満帆では終わらない
ただし、この人のキャリアはきれいではありません。
トレード、移籍、評価の揺れ。
いわゆる「波乱型」です。
それでも消えなかった理由は一つ。
どこに行っても打てた。
後にロッテオリオンズなどでもプレーし続けます。
この人から見える現実
ここまで見てくると、
綺麗な成功ストーリーではないことがわかります。
病弱スタート
貧困
進学断念
挫折しかける
移籍も経験
その中で残ったものは何か。
評価されるポイントを責め続けたことかもしれません。
「好きだから続いた」でも
「根性でやり抜いた」でもない。
もっと現実的で、
求められる結果に自分を寄せていった結果です。
編集後記
何かを始めようとしたとき。
環境が整っているかどうか。
やりたいことかどうか。
上手くできるかどうか。
やる前に考えてしまって後回しにしがち。
もちろん、そういう考えだって大事。
ですが江藤慎一のキャリアを見ると、
動きながら、自分のできることを極めていった。
行動が先だからこその実力。
努力が才能を超えた人の代名詞かなと。
また、金曜日の偉人伝をお楽しみに。


