判決に納得できない場合|控訴を検討する際の判断材料
風俗店やキャストとのトラブルで示談の話が出たとき、「お金は払う。ただ、本名だけは知られたくない」と考える方は少なくありません。家庭や勤務先への影響を考えれば、自然な発想だと思います。ただ、示談は相手のある合意ですから、本名を伏せられるかどうかは、こちら側の希望だけで決まるものではありません。この記事では、弁護士を代理人に立てた場合にどこまで身元を伏せた形の合意ができるのか、そして伏せることでかえって自分が困る場面はどこかを、順番に整理します。
この記事で扱うこと、扱わないこと
扱うのは、示談の場面で自分の氏名・住所をどこまで相手方に出さずに済ませられるかという一点です。成人同士のトラブルを前提にしています。
次のテーマは、それぞれ論点が大きいため、この記事では踏み込みません。
- 示談金の金額が妥当かどうかという評価。
- 清算条項・口外禁止条項など、示談書に入れる条項の中身の設計。
- 家族に知られないための郵便物の送付先や連絡方法の設計。
- すでに逮捕・警察からの呼び出しを受けている場合の個別の見通し。
また、この記事は店のルールや法律に反する行為をすすめるものではありません。身元を伏せることそのものが目的になると、かえって不利な状況を招くことがあります。その点も含めて説明します。
「本名を明かしたくない」は三つに分けて考える
同じ「明かしたくない」でも、誰に対して伏せたいのかによって、できることがまったく違います。まず、この三つを分けてください。
| 誰に対して伏せたいか | 伏せられる余地 | そう言える理由 |
|---|---|---|
| 店・キャストなど相手方 | 交渉しだいで伏せられる場合がある | 示談の内容は当事者が自由に決められるため。ただし相手の同意が前提 |
| 依頼する弁護士 | 伏せたままの依頼は難しい | 受任にあたっての本人確認や、利益相反の確認が必要になるため |
| 警察・検察(刑事手続が動いている場合) | 伏せることはできない | 捜査機関は身元を把握したうえで手続を進めているため |
多くの方が心配しているのは一番上の行だけです。二番目と三番目は、伏せる/伏せないを選べる場面ではありません。逆にいえば、相手方に伏せることと、誰にも知られないことは別の話だということになります。
示談は合意なので、相手が納得しなければ成立しない
示談は、当事者がお互いに譲り合ってもめごとを終わらせることを約束する契約です。契約である以上、相手が「誰と約束したのか分からないままでは応じられない」と言えば、そこで話は止まります。
インターネット上の相談でも、「本名も住所も分からない相手と示談書を交わすことは通常ない」という趣旨の回答が多く見られます。書面をこちらで作ること自体は自由でも、相手が署名しなければ合意は成立しません。
一方で、刑事弁護を扱う法律事務所の解説の中には、弁護人が窓口になって、加害者側の氏名を相手方に伝えないまま示談が成立した事例を紹介しているものもあります。相手方の側でも、氏名や口座を明かしたくないという理由から、弁護士事務所で現金を手渡す形をとった事例が紹介されています。
つまり、打診してみる価値はあるが、断られる可能性も織り込んでおくというのが現実的な構えになります。最初から「絶対に名前は出さない」と決めてしまうと、交渉そのものが動かなくなることがあります。
代理人限りでの合意は、実際にはこういう形になる
弁護士を立てたうえで身元を伏せる場合、書面と手続の各所で工夫が必要になります。おおまかには次のような形です。
当事者欄と署名欄
示談書の署名押印欄を、本人ではなく代理人弁護士の名前と職印にする方法があります。弁護士が関与している事案では、そもそも署名押印を代理人名で行うのが通常だという実務上の説明もあります。本人の氏名は、頭書きに書く場合と書かない場合があり、ここが交渉のポイントになります。
出来事の特定の仕方
氏名を書かない場合、「誰と誰の、どの出来事についての合意なのか」を別の方法で特定する必要があります。刑事事件になっていれば事件番号や事件名で特定する方法が知られています。刑事手続に乗っていない民事のトラブルであれば、日時・店舗名・利用したコース・担当者の源氏名など、後から見て一つの出来事に絞り込める情報を組み合わせて特定していくことになります。
お金の渡し方
ここを見落とすと、書面で伏せた意味がなくなります。銀行振込は、相手の通帳や明細に振込人の口座名義が残ります。代理人の預り金口座を経由する、あるいは弁護士事務所で現金を交付して領収書を受け取る、といった方法が検討されます。どの方法をとるかは、金額や相手方の意向にもよります。
書面の受け渡しと保管
示談書は通常2通作成し、双方が1通ずつ持ちます。相手方が保管する1通に自分の氏名が載るかどうかが、そのまま「後で誰の目に触れうるか」に直結します。書面を紛失されるリスクまで含めて、記載する情報を決めることになります。
伏せたつもりでも伝わりうる経路
示談書の書き方だけを整えても、別のルートから氏名が伝わることがあります。あらかじめ想定しておいたほうがよい経路を挙げます。
刑事手続の中で警察から伝わる場合
犯罪捜査規範10条の3は、捜査にあたって被害者等に対し、手続の概要や捜査の経過のほか、被害者等の救済または不安の解消に資すると認められる事項を通知しなければならないと定めています。この「救済に資する事項」には、捜査により明らかになった被疑者の氏名や住居が含まれると説明されています。
また、警察には被害者連絡制度があり、身体犯や重大な交通事故の被害者等に対して、被疑者を検挙した場合には被疑者の氏名や年齢などを連絡する運用がとられています。不同意性交等の事件はこの対象に含まれるとされています。
ただし、10条の3にはただし書があり、捜査や公判に支障を及ぼす場合のほか、関係者の名誉その他の権利を不当に侵害するおそれのある場合は通知しないとされています。弁護人が就いている事案では、窓口を弁護人にすること、不要な個人情報の開示は控えてほしいことをあらかじめ申し入れる、という対応が解説されています。逆にいえば、動き出す前に手当てをしておかないと間に合わない場面がある、ということでもあります。
お金の流れ
前述の振込名義のほか、クレジットカードで支払った利用分の明細、店の会員登録に入力した情報、ポイントカードの登録内容など、金銭に関する記録は思いのほか多く残ります。
その場で渡してしまったもの
トラブルになった当日に、身分証を撮影された、免許証を提示した、電話番号やSNSのアカウントを教えた、というケースはよくあります。この場合、示談書で伏せても実益は小さくなります。すでに渡してしまった情報がある場合は、そのことを前提に方針を組み直したほうが現実的です。
店がすでに持っている情報
初回利用時の本人確認、送迎の際の住所、予約時の電話番号など、店側が最初から把握している情報もあります。何が伝わっていて、何が伝わっていないのかを一度棚卸ししておくと、交渉の見通しが立てやすくなります。
本名を伏せることで、自分の側が不利になる場面
匿名にできれば得だ、と単純にはいえない面があります。とくに次の三つは、あらかじめ知っておいたほうがよいと思います。
- 相手が約束を破ったときに、こちらから追及しにくくなること。
- 交渉が長引きやすく、条件面で譲らざるを得なくなりやすいこと。
- 後になって「あの合意は別人がしたものだ」と争われる余地が残ること。
一つ目は具体的にはこうです。示談書に口外禁止の条項を入れても、相手がそれを破って周囲に話した場合、こちらが違反を理由に何かを求めるには、自分が合意の当事者であることを自分から明らかにする必要が出てきます。伏せることを優先した合意は、いざというときに使いにくい合意でもあるのです。
二つ目は、相手方の立場に立つと分かります。相手にとって、身元の分からない相手との約束は、支払が滞ったときに請求する先がないということを意味します。その不安を埋めるために、支払を一括にする、金額を上乗せする、といった条件を求められることがあります。
三つ目は、代理人の関与のさせ方で相当程度カバーできます。弁護士が代理人として署名し、委任状によって本人から代理権を得ていることが確認できれば、「誰の代理人としての合意か」という点は事務所側で担保されます。ここが、本人だけで匿名の合意をしようとする場合との大きな違いです。
弁護士に対しては本名を伝える必要がある
相手方に伏せる話と、弁護士に伏せる話は分けて考えてください。弁護士に依頼するときは、氏名や住所を伝えたうえで進めることになります。理由は二つあります。
一つは、同じ事務所が相手方から先に相談を受けていないかという確認(利益相反の確認)ができないためです。もう一つは、日本弁護士連合会の定めにより、一定の事件を受任するときや、示談金など一定の資金を預かるときには、氏名・住居・生年月日といった本人特定事項の確認を行うこととされているためです。示談金の預かりは、この確認が求められる場面に含まれると整理されています。
弁護士には守秘義務があり、依頼者から聞いた事柄をみだりに他に漏らすことはできません。相手方に何を伝え、何を伝えないかは、依頼者と相談したうえで決めていくことになります。なお、依頼前の段階の相談をどこまで匿名でできるかは別の論点です。
裁判所の秘匿制度は使えるのか
民事訴訟には、住所や氏名を相手方に知られないまま手続を進められる秘匿の制度があります。ただしこれは、犯罪の被害に遭った方やDVから避難している方が訴えを起こす場面などを想定した制度で、社会生活を営むのに著しい支障が生じるおそれがあることを示す必要があります。
トラブルを起こしたと言われている側が、家庭や職場に知られたくないという理由で使える仕組みではありません。示談交渉の段階で使える制度でもありません。この点は、ネット上の情報で混同されやすいところです。
避けたほうがよい進め方
身元を伏せることを優先するあまり、次のような対応をとると、別の問題が生じることがあります。
- 実在しない名前や他人の名前で署名する。文書の名義を偽ることになり、合意の効力以前の問題を生じさせるおそれがあります。
- 書面を作らずに支払だけ済ませる。何が終わった合意なのかが残らず、後で蒸し返される余地が広がります。
- 連絡を絶って放置する。相手方が住所や勤務先を調べる動きに出たり、刑事手続に移行したりすることがあります。
- 弁護士にも事実や氏名を伏せたまま進める。前提が違えば方針も変わり、途中で組み直しになります。
相談前に整理しておくとよいこと
弁護士に相談する際、次の点を整理しておくと、伏せられる範囲の見通しが早く立ちます。
- 相手方が現時点で自分の何を知っているか(氏名・電話番号・住所・勤務先・カード情報など)。
- その情報をどの段階で、どのように渡したか。
- 警察が関与しているか。関与している場合、いつ、どのような形で接触があったか。
- すでに支払った金銭があるか。ある場合、方法と金額と日付。
- やり取りの記録(メッセージ、通話履歴、書面、レシート)。
- 最も避けたいことは何か(家族に知られること、勤務先に知られること、刑事手続に進むこと、など)。
最後の項目は特に大切です。優先順位がはっきりしていれば、氏名を伏せることに労力を割くべきか、別のところに手を打つべきかの判断がしやすくなります。
よくある質問
源氏名や通称で書いた示談書に意味はありますか
誰と誰の合意なのかが後から特定できるのであれば、意味がないとまではいえません。ただ、通称だけで当事者を特定した書面は、争いになったときに「その人物と自分は別だ」という主張が出てくる余地を残します。代理人が関与する形にするほうが、この不安定さは小さくなります。
店には本名を伝えず、キャスト本人にだけ伝えることはできますか
誰に何を伝えるかを分けること自体は、交渉の中身の問題なので不可能ではありません。ただ、店とキャスト本人とでは、そもそも請求できる立場が違うことがあります。誰との間の合意なのかという整理が先にあり、氏名を伝える範囲の話はその後になります。
すでに身分証を見せてしまいました。今からできることはありますか
撮影されたのか、目視されただけなのかで状況は変わります。撮影された場合は、画像の取扱いについて合意の中で取り決める、という選択肢があります。いずれにしても、渡してしまった事実は変えられないので、その前提で組み立てることになります。
弁護士に依頼したこと自体が相手に伝わりますか
代理人として交渉する以上、相手方には代理人が就いたことが伝わります。ただ、伝わるのは代理人の氏名と事務所の連絡先であって、依頼者の氏名を必ず添えなければならないわけではありません。何をどこまで書くかは、通知の段階から相談して決めることができます。
まとめ
最後に、要点を整理します。
- 「本名を明かしたくない」は、相手方・弁護士・捜査機関の三つに分けて考える。伏せる余地があるのは相手方に対してだけ。
- 示談は合意なので、相手が応じなければ匿名のままの合意は成立しない。打診する価値はあるが、断られる前提も持っておく。
- 代理人限りの合意は、署名欄・出来事の特定・お金の渡し方・書面の保管をセットで設計してはじめて機能する。
- 書面を整えても、刑事手続の中の連絡、振込名義、すでに渡した身分証などから伝わる経路が残る。
- 伏せることには代償があり、相手が約束を破ったときに追及しにくくなる。
- 弁護士には本名を伝える必要がある。相手方に伝えるかどうかは、そのうえで決める話になる。
身元を伏せられるかどうかは、置かれている段階によって幅が大きく変わります。相手方とのやり取りが始まる前、警察が動く前のほうが、選べる手が多く残っています。判断に迷う段階で一度ご相談いただければ、伏せられる範囲と、伏せることで生じる負担の両方をお伝えしたうえで、方針を一緒に考えることができます。


