警察に相談すべきか、弁護士に相談すべきか|窓口の使い分け早見表
金銭や謝罪を強く求められていた相手が、ある日突然「もういいです」「今回は取り下げます」と言ってくる。あるいは連絡がぱたりと止まる。ようやく解放されたと感じる瞬間ですが、そこで何も残さないまま終わらせてしまうと、数か月後、あるいは数年後に同じ話が戻ってくることがあります。
ここでは、要求を受けた側の立場から、「取り下げ」という言葉の法的な意味と、再請求を防ぐための合意書の考え方を整理します。
1.「取り下げます」という言葉に、法的な形式はない
まず前提として、私人どうしのやり取りの中で使われる「取り下げ」に、法律上決まった手続きや効果があるわけではありません。
民事の権利が消えるのは、原則として次のような場合です。
- 支払いなどによって義務が果たされたとき(弁済)
- 相手が請求権を放棄したとき(免除/民法519条)
- 話し合いで互いに譲り合い、争いをやめる合意をしたとき(和解/民法695条)
- 消滅時効が完成し、援用されたとき
このうち免除は、債権者の一方的な意思表示だけで成立するとされており、口頭の「もういい」も理屈のうえでは免除にあたる余地があります。ただし、後から相手が「そんなことは言っていない」と述べたとき、それを示す材料が何もなければ、免除があったと認めてもらうのは容易ではありません。言葉だけの取り下げは、実際には「何も変わっていないのに安心だけが生まれている状態」に近いといえます。
制度として整備されている「訴えの取下げ」でさえ、判決が出る前に取り下げた場合には、同じ内容で再び訴えることが妨げられません(民事訴訟法261条・262条)。手続きを踏んだ取下げですらそうなのですから、口頭のやり取りに終結力を期待するのは難しいところです。
2.取り下げのあとに、請求が戻ってくる3つの型
実務でよく見られるのは、次のような戻り方です。
| 型 | 戻ってくる形 | 背景にある事情 |
|---|---|---|
| A:時間を置いて同じ請求 | 数か月〜数年後に、同じ内容で再び連絡が来る | こちらの記録や記憶が薄れる時期を待っている場合がある |
| B:名目を変えた請求 | 「慰謝料」が「迷惑料」「治療費」「精神的な被害」に置き換わる | 前回とは別の話だ、という説明を作りやすい |
| C:相手や宛先が変わる | 本人ではなく家族・知人・代理人を名乗る人物から、あるいは勤務先へ | 前回の相手との間で終わった話だ、という反論を避けられる |
三つに共通しているのは、「何が、誰との間で、どこまで終わったのか」が一度も文字になっていないという点です。書面がなければ、こちらは「終わったはずだ」と主張し、相手は「終わっていない」と主張するだけの水掛け論になります。
3.「終わり」を形にするために必要な4つの要素
再請求を防ぐことを目的とするなら、書面に最低限これだけは入れておきたい、という要素があります。表題は「合意書」でも「示談書」でも「和解契約書」でも構いません。
① 当事者を特定する
誰と誰の間の合意なのかを、氏名と住所で記載します。相手が複数いる事案や、代理人を名乗る人物が出てきている事案では特に重要です。ある人物との間で清算しても、それは別の人物との関係には及びません。
② 対象となる出来事を特定する
いつ・どこで・誰と誰の間に・何があったのか。この特定が曖昧だと、後から「あの件は含まれていない」という主張の入り口になります。
③ 金銭の取り決めを明記する
支払う場合は金額・期限・方法・振込先まで書きます。支払わないという結論であれば、「甲は乙に対し、本件に関し何らの金銭的義務を負わないことを確認する」といった形で、支払義務がないこと自体を確認する書面にすることもできます。合意書は、必ずしもお金を払う書面ではありません。
④ 清算条項を入れる
「本合意書に定めるもののほか、何らの債権債務がないことを相互に確認する」という趣旨の条項です。和解には、後から異なる証拠が出てきても原則として蒸し返せないという効力が認められています(民法696条)。再請求を防ぐという目的からすると、ここが中心になります。
4.清算条項は「たった一文」で効き方が変わる
清算条項には、よく次の二つの書き方が使われます。
- 甲及び乙は、甲乙間には、本合意書に定めるもののほか、何らの債権債務がないことを相互に確認する。
- 甲及び乙は、甲乙間には本件に関し、本合意書に定めるもののほか、何らの債権債務がないことを相互に確認する。
違いは「本件に関し」の五文字だけですが、意味するところは異なります。「本件に関し」を入れると、その事案に関係しない権利義務は清算されずに残ると読まれます。裏を返せば、「本件以外はまだ残っている」と含意していると受け取られる余地が生まれます。
どちらが適切かは、状況によって変わります。
- 相手との間に他の関係(貸し借り、賃貸借、取引など)が一切なく、すべてを終わらせたい場合 → 「本件に関し」を入れない形が検討されます
- 別に継続中の関係があり、そこまで巻き込みたくない場合 → 「本件に関し」を入れて範囲を限定します
「本件」の中身の書き方も同じ発想です。特定が細かすぎると「その日の、その行為以外は含まれない」と主張される余地が残り、逆に広く書きすぎると、こちらが将来主張したかった権利まで消えてしまうことがあります。
5.事情に応じて足しておきたい条項
接触禁止条項
連絡そのものを止めたい場合に置きます。訪問・電話・郵便・メール・SNSなど手段を列挙し、第三者を介した接触も対象に含めるかを検討します。
口外禁止条項
出来事の内容や、合意したこと自体を第三者に話さない旨の条項です。一方だけに義務を課すより、相互の義務とするほうが受け入れられやすい傾向があります。
違約金条項
接触禁止や口外禁止に違反したとき、実際の損害額を立証するのは簡単ではありません。そこであらかじめ金額を定めておくのが違約金条項で、違約金は損害賠償額の予定と推定されます(民法420条3項)。
ただし注意点があります。かつての民法には「裁判所はその額を増減することができない」という文言がありましたが、2020年4月1日施行の改正でこの部分は削除されました。金額が実態からかけ離れて過大な場合には、減額されたり効力が否定されたりする余地があります。抑止力を持たせたい気持ちは自然ですが、桁を大きくすれば安全というものではありません。
6.書面を作ることが、かえって不利に働く場合もある
ここは、要求を受けた側にとって最も注意が必要な点です。合意書は「作れば安心」なものではありません。
- 支払義務がないと考えているのに、「支払義務があることを認める」条項に署名しない。 債務の存在を認める行為は、消滅時効を更新させる事由になります(民法152条1項)。争えたはずの請求について、時計が巻き戻ってしまうことがあります。
- 事実関係を認める記載は、別の場面で使われることがある。 民事の解決のつもりで書いた一文が、刑事手続や第三者との紛争で、事実を認めた資料として提出される可能性があります。
- 一部だけ支払うことも、承認と評価されることがある。 「とりあえず少しだけ」は、終わりに近づく行為とは限りません。
- 相手が用意した書面に、その場で署名しない。 内容を持ち帰って確認する、と伝えることは不誠実でも違法でもありません。
つまり、目的に合った形にして初めて意味を持つ書面であり、内容を確認しないまま署名するくらいなら、書面がないほうがよかった、という事態も起こり得ます。
7.民事の合意では止まらないものがある
もう一点、押さえておきたいのが刑事のレイヤーです。
被害届には、法律上の「取下げ」の手続きが定められていません。告訴の取消しができるのは起訴前までですし、そもそも多くの犯罪は告訴がなくても捜査・起訴が可能です。したがって、合意書に「刑事告訴をしない」と書いてあっても、それは当事者間の約束であって、捜査機関を拘束するものではありません。
もっとも、これは合意書が無意味だという話ではありません。当事者間で解決がついていることや、被害者側の処罰感情が和らいでいることは、処分を判断するうえで考慮されうる事情です。民事の書面と刑事の手続きは別の層にある、と理解しておくことが大切です。
8.形式面と、相手が応じないとき
形式面で押さえたいこと
- 同じものを2通作り、双方が1通ずつ保管する(原本を手元に置く)
- 氏名は自署とし、住所も記載する
- 支払いがある場合は、振込など記録が残る方法にする
金銭の支払いを確実にしたい場合、公正証書にして強制執行認諾文言を入れておく方法があります。ただし、この方法で直ちに強制執行できるのは、金銭の一定額の支払いなどに限られます(民事執行法22条5号)。接触禁止条項そのものを公正証書にしても、直ちに強制執行できるわけではありません。実効性を持たせるには、違反時の違約金という形で金銭に置き換えておく設計が検討されます。
相手が書面に応じない場合
相手が合意書の作成を拒む、そもそも連絡がつかない、身元が分からない、といったこともあります。その場合でも、これまでのやり取りを日時つきで保存しておく、窓口を一本化して直接のやり取りを避ける、といった備えは可能です。支払義務がないことを確定させたいときには、こちらから債務不存在確認の訴えを起こすという選択肢もあります。
なお、要求の仕方が害悪の告知を伴うものであれば、脅迫罪(刑法222条)や恐喝罪(同249条)に触れる可能性があります。他方で、正当な権利を持つ人が「訴える」「弁護士に依頼する」と告げること自体は、直ちに違法とはいえません。
9.再請求を防ぐためのチェックリスト
| 確認項目 | 見るべきポイント |
|---|---|
| 当事者 | 氏名・住所で特定されているか。相手方が複数いないか |
| 対象事案 | いつ・どこで・何があった件か。範囲が広すぎ/狭すぎないか |
| 金銭 | 金額・期限・方法。支払わない場合は「義務がないこと」の確認になっているか |
| 清算条項 | 「本件に関し」を入れるか入れないか。目的と合っているか |
| 追加条項 | 接触禁止・口外禁止・違約金は必要か。違約金の額は過大でないか |
| 認める記載 | 支払義務や事実を、必要のない範囲まで認めていないか |
| 書面の管理 | 2通作成し、原本を手元に保管しているか |
おわりに
最後に一点だけ付け加えます。取り下げのあとに来る請求が、すべて不当だとは限りません。話し合いの時点では分からなかった損害が後から判明することもありますし、分割払いの残額を求められているだけ、という場合もあります。「一度終わった話だ」と一律に突っぱねる姿勢も、逆に言われるまま重ねて応じる姿勢も、いずれも適切とはいえません。
大切なのは、終わったのかどうかを感覚ではなく書面で確認できる状態にしておくことです。相手が要求を引っ込めたときは、緊張が緩む一方で、実は最も冷静に条件を整えられるタイミングでもあります。どの範囲まで清算するのか、どの記載は避けるべきかは事案によって変わりますので、署名の前に一度、弁護士に内容を確認してもらうことをおすすめします。


