侵略戦争中での、異例の決着
97年前の大正11年8月3日、金沢測候所明治15年開設以来の豪雨で
当時での市内の浸水家屋は約4,000戸、被災市民は2万人以上に及んだ。
水害に襲われた当時の片町付近
特に犀川の堤防決壊は60カ所以上あり、片町、香林坊は大水害となった。
流されてしまった当時の犀川大橋
その3年前に、市内電車敷設のため木造から鉄筋製のものに架け替えられた
犀川大橋は、無残な姿で流されてしまった。
上流に架かる大桑、上菊、下菊、桜橋の木橋が押し流され、橋材や流木を
せき止め犀川大橋もあえなく陥没し、下流の新橋、御影橋も流失した。
その大水害から2年後に、現在の犀川大橋が完成した。
2年前の大水害の教訓を生かし、橋脚のない橋に設計されたが
関東大震災の影響で鋼材が入手困難となり、一部は英国産を使用している。
そして、2000年(平成12年)には、国の登録有形文化財に登録され今に至っている。
橋脚のない現在の犀川大橋
この石川の近代建造物遺産は「災害は忘れたころにやって来る」ということを
市民に語り続けているのかもしれない。
ちなみに、一説によると江戸時代金沢を訪れた松尾芭蕉が
橋の上で「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」と詠んだそうである。