これも、芸術の秋か・・
加賀藩の御用商人、加賀の豪商と呼ばれた銭屋五兵衛。
意外と知られていないようですが、「銭屋五兵衛」は代々の当主が世襲する通称名で本当の名前は「清水五兵衛」。
銭屋は戦国時代に織田信長に滅ぼされた朝倉氏の末裔といわれ、旧鳥越村(現・白山市鳥越地区)辺りでひっそりと暮らしており、その近くで清水が湧いていたことから「清水」と名乗ったようです。
五兵衛の祖父にあたる吉右衛門が金沢に移住し、両替商、醤油造、古着商 等々手広く事業を拡げます。 今でいう「起業」ですね。
五兵衛の父の時には、加賀藩の外港である宮越(今の金沢市金石)を本拠地に海運業を始めますが、業績不振のために廃業に至ります。
しかし、その子五兵衛が39歳の時に、質流れの船を買取り、海運業を再開し北前船航路に着目し、米の売買を中心に商いを拡げ、最盛期には200船を有し全国に34店舗の視点を構える、豪商と成りました。
その時には、加賀藩の資金援助も行う大スポンサーの位置にまで上りつめています。
清水五兵衛と喜太郎(長男)と記し、神社に寄進した灯篭が今も残っています。
初代が起業、二代目は業績不振で経営危機、三代目が見事に事業を再生・・今の時代にも通じる流れかもしれません。
五兵衛は将来の経済変動も予想し、用地の買収で新田開発事業や他業種、商圏を拡げリスクヘッジも行います。
しかしこれが裏目と出て、あの「河北潟干拓開発事業事件」が起こり、藩に捕われ五兵衛や家族は獄中死、はりつけの刑、銭屋の財産没収、家名断絶・・となります。
この事件については諸説色々とありますが、銭屋は密貿易を行い加賀藩も財政的援助を受けていた立場から黙示していましたが、幕府が疑いを持ち始めお家大事のために、証拠隠滅として抹殺してしまったとか?・・・
今流行りの言葉でいうならば、「忖度」「改ざん」「証拠隠滅」といったところでしょうか?
皮肉にも五兵衛が亡くなった翌年に、ペリーが開国を求めて浦賀に現れ、その翌年には幕府は鎖国政策を改め、開国へと大きく舵を切ります。その14年後に徳川の時代は終り,明治維新と日本は突き進みます。そして、今年はこの維新からちょうど150年目に当たります。
余談ですが、銭屋五兵衛の子孫の方々は、今も「清水」という姓でご健在です。
石川県銭屋五兵衛記念館のHP → http://www.zenigo.jp/