世界一の勝者の笑顔
下の絵は、現存する石川県最古の写真「蓮湖遠望」です。今から197年前の1821年(文政4年)に遠藤高環(えんどう たかのり)という人物が撮影したものです。
(出典 20世紀の照像より)
日本に写真技術が入って間もない時期のため、真写図法を用いた泥絵であったとのことです。
この写真の裏には、「文政4年に普請中の竹沢御殿から遠望した風景」と記されています。
いまの兼六園眺望台(千歳台付近)から、河北潟方面を眺めて撮影したようです。
下の写真は、遠藤高環が撮影したと思われる地点から筆者が実際に撮影してみたものです。
兼六園から見える「金沢がたどった深い話」を、さらに進めたいと思います。
上述の竹沢御殿は前田家12代前田斉広(まえだ なりなが)が、自分の隠居所として造営させ建坪約4,000坪、部屋数200余の大御殿として1822年(文政5年)に完成したものです。
この時に、この一帯の庭を「兼六園」と命名しました。まさに、いまの兼六園です。
斉広が没すると嫡子の13代前田斉泰(まえだ なりやす)は、この「竹沢御殿」を取り壊し霞ヶ池を拡げ、姿の良い木を植える等 兼六園の拡張と整備にあたりました。
その時に植えた木々の中の1つに、あの雪つりで有名な「唐松」があります。
さらに斉泰は1863年(文久3年)に、母・真龍院(12代斉広の夫人)の隠居所として巽御殿(たつみごてん)を造営し、これがいま成巽閣として現存しています。
この13代前田斉泰は、1827年(文政10年)に11代将軍・徳川家斉(いえなり)の娘である溶姫(やすひめ ようひめ)を正室に迎えています。
当時、三位以上の位の大名が将軍家から妻を迎える場合、正室と居所を御守殿と称し出入りする朱塗りの門を造営しなければならず、その門を「御守殿門」と呼んでいました。
元加賀藩上屋敷であった現在の東京大学構内(文京区本郷)の赤門が、この「御守殿門」にあたります。
幕末維新の動乱、関東大震災、太平洋戦争の東京空襲からも奇跡的に逃れ、今は国の重要文化財として保存されています。
いま桜満開の兼六園ですが、桜の向こうに赤門が見えそうと思うのは筆者だけでしょうか?
兼六園から見える「金沢がたどった深い話」でした。
最後まで、お読み頂きありがとうございます。