レッスンは自我を捨てていくこと
骨は大丈夫ですって・・それだけ?
今月、確認したくて整形外科に行きました。
1月に突き指したのが、未だに腫れていて
指が曲がりにくいのです。
レントゲンを撮ってもらったら
「骨に異常はないので大丈夫です。
指は治りにくいところなので、3~4か月かかることもありますね。
お疲れ様でした」
とのこと。
痛みがまだあったので、確認しておこうと思ってきただけのことですし
指に力のかかる事をしにくいだけなので
まあ、自分でできるリハビリをしながら、付き合うだけですが
「骨に異常がなかったら、それでいいわけ?」
と、思ってしまいました。
こういうことをすれば、腫れが引きやすいとか
こんなリハビリ方法がありますよ、とかは言われないので
自分でこんなことをしていると話すと
「いいですね。どんどんやって下さい。動かしておくことは大事です。」
聞かなければ、言われないのです。
時間がかかっても仕方ないけれど
怪我をしたとき、安静期を過ぎても動かさなければ
元の状態とは程遠くなります。
また体に不具合がある人は
骨に異常はないだろうとはわかっているのです。
でも、少しでも楽になりたかったり
少しでも良い方向に向かいたいんですよね。
もう年だから、こんなもの。
生まれ付きの骨の形だから仕方ない。
そう考えると、それを受け入れざるを得ないですが
その先もその体で生きていくのですから
何もしないよりは、自分のできることをして
楽に使えること、無理のないやり方を考えてやってみた方が
間違いなくいいと思うのです。
骨の形は変わりません。
でも、体は骨だけでできているのではないので
筋肉をどう使うか考えると、楽な使い方がわかり
楽な使い方を継続してやっていくことで
骨のあり方は少しずつ変わっていきます。
生活のクオリティが変わるのです。
痛いところが痛くなくなったり、見た目にも様子が変わって
楽に動けるようになれば
気持ちも全く違ってきます。
動くことが怖くない、面倒でない
体が軽くなれば、今まで家から出たくなかった人も
外に出たくなったり
自分には無理だと思っていたことをしてみたい気持ちになります。
人に言われたからでなく
自分がしたいと思うことをするにも
したいことができうる、きつくない体があるに越したことはありません。
その体を求めるのも自分自身です。
現状は現状。
今そうであると言う事実。
事実は事実として受け入れ、
自分が出来ることをしていくのは、誰かが決めることでなく
自分が決めること。
小さな1歩でも
階段の一番下と2段目では景色が少し違います。
2段目が5段目になれば全く違います。
階段を上ってみるのも自分自身。
自分がやってみることが
そこから先の自分の足跡になっていくと
私は考えています。