「できない」→「できる」意識コントロール
共鳴する体
先月の大阪の舞台のDVDが届いたので
見てみた。
自分自身も踊っているので
その場で感じることはあっても
どんなふうに見えるかは、その場では見ることができない。
今回は全員が中に完全に隠れてしまうほど
大きな布を使った作品だったが
ものを使って踊る時は
ものを動かそうとすると、ものは思うように動かず
ただの「もの」になる。
「もの」が身体の一部として、自分の体と同じようにつながらなければ
生きたように使えない。
そんな布を複数の人間で扱う難しさがあった。
作品の冒頭の方で
布の中に数人入り、布の上に1人が立って踊る場面がある。
布の上で踊る人がなかなかうまくいかないところがあって苦労していたが
練習中に布の中にいる人が(布の中からはもちろん見えない)
「あれ、今日はうまくいったたなと思ったよ」」と
言っているのを聞いて
随分、感じられるようになってきたんだなと思っていたが
DVDを見る限りは、その部分がうまくいったのが感じられているかどうかはわからないが
その後、布の上から布のないところへ移動する時
布は地面からやや浮いていたが
布の上にいる人が移動しやすいように、布の中にいる人がスッと寄って
浮いていた布は床について、道ができているのが見えた。
見ている人がほとんど気づかず注目もしないだろうくらいの動き。
している本人も、特別に意識してしている訳でない自然な行動。
布の上の動きを感じ取って
その流れに従って体が反応している。
料理の並んだテーブルがいっぱいで
相手の料理を置くスペースが小さい時
すっと自分の料理を手前に寄せて
相手のスペースを作るくらいの小さな意識。
誰も気づかないかもしれないけれども
そんな小さくて自然なことが、いろんなところで見えた。
そういうことは教えたからできるのではない。
感じているからできるのだ。
誰もがわかるところなら、誰もが注意して意識する。
誰かがわからなくても
そういう微細な感じ方や行動をすることが
人と共鳴し、見ている人ともつながることになると
私は思っている。
これは踊りに限らず、仕事でもマナーでも
同じであると思う。
「脚が高く上がるようになったね」とか
「すごくかっこよく飛べたね」
というようなことでない。
体が使えるように努力するのは
踊る限りは当たり前だが
どうしてかわからないけれど
人が感じてくれること、伝わり、共鳴することは
こんな小さなことを感じてできる心と体で成り立っている。
大事でないことはひとつもないが
そういうことが、とても大切なことだと思っている。