できる感覚を知っていればまた出会える
『好き』で始めたことを辛いことにしない
何かを始める時は希望に満ちて始める。
踊りであれば、「ステキ!」と憧れた人の姿を
自分に投影して、やがては同じように踊っている自分を思いうかべ
その場に行くことだけでも嬉しい。
が・・
続けるうち、思い浮かべた姿と現実の自分を比較して
初めのうちは仕方がないことと受け入れるが
何年続けても思うようにならない自分にいらだち、悲しみ
「私は向いてないんだ」
と嘆く。
その通り。
向いてないのだ。今は。
誰でもそこに至るが、好きで始めたことを裾広がりの可能性を持つものにしていくか
そこで諦めて、だんだん辛くなり、ばからしくなって理由付けし、やめてしまうかは
だからどうするかで分かれる。
好きで始めたものを継続していくには
どんなことも楽しみに変えていく切り替えがいる。
辛かった憂さをはらすようなやり方ではなく
自分が出来ないことをすぐにできなくても
出来るに至る方向を見いだすきっかけと思えるようにすることである。
そんな風に言われたって、どうしていいかわからない、と思う人もあるだろう。
だって一生懸命やっても出来ないんだもん。
体が鈍くなる大人から始めてるんだもん。
誰も教えてくれないし。
これは頭が「できない」ことにショックを受けたままだからだ。
意識が「できない」ことから、奇跡のように「できる」ことにしかいかないからだ。
できる要素がなければ奇跡は全く起こらない。
物事には段階があるとわかっていても
その時の自分には適用されていない。
思考のチャンネルを切り替えることをすれば問題なく出来ることも
そのままではもっとできなくなる。
闇雲にわからないまま練習しても、出来る方にはいかない。
出来る人とできない自分をよく見て
どこが違うのかを知る。
この時
「体力がないから」 「筋肉が弱いから」は
除外して。
1つの違いでも違っているところをみつけては
同じようになるようにしてみる。
たった一つのことでも、すぐには同じようにはいかないことも覚悟していると
それひとつだけでもうまくいくこともある。
それを繰り返していくと、見えるところも増えてくる。
自分で観察しみつけて、自分で実感してみて
どんな小さなことでもできれば嬉しい。
喜びを感じられた時には
与えられるレッスンから、自ら生み出すレッスンに変えられた時である。
稽古に行けば自動的に身に付き与えられるものではない。
自分で生み出す力のきっかけを発見する場であり
それを更に成長させる場なのだ。
最初は無我夢中でも
ふっと辛くなった時、初めはうまく行かなくても
冷静になって、言われるがままに動かされるのでなく
自分で考えてみることを1つずつしてほしい。
体は自分の意志によってしか、自分の思うようにはならない。
自分の明確な意思を体に伝えるのに
自分自身がどうなっているのかわからなければ
ただ動かされているだけである。
単に足裏の意識を持つ、でもよい。
ひとつでも自分手動で動いたものは心地の良い感覚をもたらす。
「好き」で始めたことを辛くなく、楽しいことに変換することが
そこから始まる。