固定概念を捨てる
本能が「これ!」と告げること
踊りなり、競技なり、自分が好きで続ける人は
ストイックに取り組む人が多い。
いろんな試行錯誤をしていくうえで
ストイックなことは
「痛くて当たり前」
「しんどいことを黙々と続ける」
というふうに、修行僧の水垢離みたいなイメージを持つことが多そうな気がする。
うちでレッスンを受ける人の中には、痛みなく楽にできると
「痛くないしきつくないとサボってる気がします」という方もある。
本当に痛くてきつくて辛いことを人は長年に渡って、自主的に続けられるだろうか。
「痛くてきついこと」は本人の感覚。
見た目にこんなきついことをしてるんだ!すごいな!と見えることを
本当に自主的に何十年続けられるか?
痛くてきついと本人はが思わないからできる。
痛くてきつければ体中が強張り、メンタル的にもいい方向に行かない気がする。
痛くなくてきつくない方向にメンタルも体の使い方もチェンジできれば
痛くてきつそうにみえることが、楽しくて追求し続けなければ納まらない図式ができる。
痛くてきついことを決死の覚悟で耐えながらすることもやってきたが
「耐える」のは受動的な方向である気がする。
「耐える」代わりに「面白くてやりたくて仕方ない」ように
能動的に取り組み方が変わればいいんじゃないの?
と思ったのは、壮大なもくろみでなく日常の遊び感覚から
自分の苦手なところを動かし始めて、そこが変化し出してからである。
こんなことができるためには、このようなプロセスを通るべき!
と言うのをやっていてできなければ、違うアプローチでいいやん!と言うことである。
私などは天邪鬼だから、人に「こうすべき!」と強硬にいわれると
途端にやる気をなくしていた。
しかし、「こうすべき!」にはそれなりの理由がある。
四角四面にとらえないで、言われたこともいったん自分の中に入れて
そのままコピーでなく、しっかりみつめる。
自分の中に求められたものに非常に近い感覚は気がつかないだけで
ある程度続けてきた人の内側には必ずある。
それをアプローチを変えてやってみると見つけ出せることがある。
人によって違う。
私もなかなか思うようにできなかったことを
人に言われるままにやってみて、ますますおかしくなっていくのを
生徒さんに違うことを教えていた時に
「あっ!これを進展させただけのことやん!」と気づいたこともある。
自分で実感したそれは、問題なくそれでOK!と受け入れられた。
そのことを折田先生にお話したら
「そうよ!自分で実感して納得することが何より大事なことなの」
と言って下さったことが、本当に嬉しかった。
歩いていく行程が違ったとしても、目指す目的地が同じならば
寄り道になるかも知れないが、自分がひとつずつ納得できて
こうすればここが動いていく、こちらにもつながる~と
自ら面白いと取り組める行き方でいい気がする。
求められることはやってみる。
しかし実感はコピーでなく自分自身の内側から納得しなければ
身にならない。
人から受け入れたエキスを自分の中で濾過して
自分の血肉にする作業。
誰に「そう!」と言われなくても、本能が「これだ!」と告げたことは
自分でわかり、必ず自分の身になる。
※WSを受けて下さった方が、私のレッスンを受けて感じたこと
ご自身のブログでを書いて下さっています。
リンクさせていただきました。腹式呼吸だって使うーカラダをひらくダンスをつくる
有難うございます。