心の目に映るもの、映らないもの
非日常に直結する日常
今日は違うコラムを予定していたが
今朝、いつもWSに来られる方からメールを頂いて
思いがそちらに飛んだ。
先日のWSで私が皆さんにお話ししたことと関連することを
次の日テレビを見ていたら、ダンサーの菅原小春さんが言われていたというもの。
私が感じているのは、競技者やダンサーであっても
普段姿勢の悪い人が多いということ。
日常意識できていないものが、競技の時だけ、踊る時だけ意識しても
その時だけの借り物でしかない、と私には思える。
まだ踊りを始めたころ、先生の背中はいつも美しく伸びていて
胸鎖乳突筋のラインがはっきり見えるのは憧れだった。
日常が踊りのためにあった。
何をしていてもあんなふうにきれいに見える体になりたいと願ったものだ。
どんなにお洒落して身を飾っても
服を脱いでしまえば体と心しかない。
この世での自分の持ち物はそれだけである。
先日動くことには動機があるでも
書いているが自分が動くこと、例え何気ない日常の小さな動作でも
呼ばれたから背骨から振り向く、足元にある荷物を
膝を掬い取る様にして取る、など
無意識にやらずに、目的に向かう動作としてできる限り意識している。
それが日常的にできてくると、私の場合なら日常がスムーズになるだけでなく
踊りに生きて来て
ぶつ切れにならない説得力のあるものになる。
テレビで言われていたことは、日常の何気ない動作にも命を吹き込むことが踊りになると言うもの。
日常でしていることが自分のしたいことに直結している。
日常を磨かずして非日常はない。