心の目に映るもの、映らないもの
動くことには動機がある
先日、レッスンに来られた方から頂いたメールで
ハッとしたことがあった。
この方も遠方から来て下さる方だが
体幹から手足につながる感覚をレッスンではっきりと実感して下さった方。
やらなきゃ、じゃなくって、
あるがままになんでしょうね。
体のあの流れの感覚、生きるお手本の気がします。
始点があって、流れがあって、その結果動ける。
動こうとして無理やりは
あちこち、不具合が出る。
こ う見せたいと思った瞬間、すべてに力が・・・。
能力があっても、なくても、
こういう事がしたいという気持ちが始点なのでしょうね。
すべての原動力の気がします。
頂いたメールの一文を読んで、ハッとした。
大きな局面を迎えるような大きな行動も
手元の先にある何かを引き寄せるようなごく日常的な小さな行動も
〇〇したい、という動機が発露である。
例えば、作品中、自分で作った振りでなくても
動きをつないでいくには、全てに動機がいる。
この星をつかみたい。
とどかない。
でも近づきたい。
精いっぱい近づこうとして、やはり届かないで崩れ落ちるけれども
また立ち上がる。
今度はもっと足元を確かめて、前に歩いていこう。
そんなふうに自分の動きの自分なりのストーリーを思い描きながら
動機があるから動いていく。
自然に自分の中を巡る
動機があって動く動きは、やはり自然に人の心に入っていくが
「こんなふうに見えるんじゃないの?」
という形からの動きは、どこかとらえられない取ってつけたものにしか見えない。
今月21日の舞台の作品のリハーサルでも
その話はよく出てくる。6月21日洋舞フェスティバルに出演します
動きとはそういうものであると思うけれど
この方がおっしゃるように
踊りとか競技とかに留まらず
生きていること全てにつながっている気がする。
「動くことには動機がある」は
先生方から、繰り返し言われてきたことだが
踊りを通して、人生を生きる姿が反映されている。
したいことはやらなくてはならないからするのではない。
したくてたまらなくて
そうせずにはいられないからするのだ。
人生そのものが自分の踊りに
或いは他のことであっても、自分が大事にしていることの姿勢につながり
生きることとイコールになっている。
人は自分の思うように生きているから活きる。