「大島石墓石」の価格・ランク・品質を徹底解明!(最終話)なぜ中国加工の大島石墓石が売れるのか?
世界的に活躍され、“Samurai Artist”の異名を持つ彫刻家、流政之(ながれまさゆき)氏は、
世界各地を放浪のうえ独学で彫刻を学ばれ現在に至ります。
昭和30年頃、流政之氏は香川県、高松市・久通の石材工場内にアトリエを持ち、そこで仕事を始めました。
「石工(いしく)の技術を絶やさぬように」と、彼のそんな強い思いと、その技術の中から生まれる線と面。
そこに見られる力や動きを造形の世界に活かせるであろうという願いと、
当時の香川県知事からの熱望で、昭和37年「庵治石匠塾」となりました。
昭和38年に行われた「ニューヨーク世界博覧会」において、
日本館の石彫が世界的に有名になり、流氏に従い渡米し、彼の制作に参加した若い石匠達がいました。
彼らは新しい石の造形の真価に触れ、一層その技術を磨くと同時に、
庵治(あじ)・牟礼(むれ)両町の石材加工業者に新しい風を吹き込みました。
昭和40年頃より、庵治町東海岸に面した小高い山中に
「石と煉瓦の砦」とも言われた建物が造られ、ここを制作の拠点としました。
香川県内では、高松市美術館エントランスホールに「NAGARE BACHI」、
五色台大崎山展望台には「またきまい」と題した流政之氏の作品があります。
神戸市中央区のメリケンパーク内にも「神戸海援隊の碑」と題した
流政之氏制作の御影石製のモニュメントがありますが、龍馬の時代、このあたりは海の中。
龍馬とのゆかりはありませんが、説明板に以下の言葉が記されています。
「1863年から65年にかけ 神戸小野浜に勝海舟・坂本龍馬によってつくられた海軍操練所が存在した。
武士、町人、 農民を問わず若者たちが大洋に夢をはせ経済、科学など多くのことを学んだ。
夢をはたせず志なかばで倒れていった若者達を神戸海援隊と名付け、その短い青春の夢をここに刻む」
※参考文献:『天下の銘石 庵治石』(谷本竹正氏著)
彫刻家・流政之氏について詳しくはこちらまで
http://www.nagaremasayuki.com/
「庵治石」について詳しくはこちらまで
http://www.daiichisekizai.com/choose_stones/2010/01/entry_692/
神戸の「お墓のプロ」、(株)第一石材・能島孝志の神戸新聞取材記事はこちら!
http://mbp-japan.com/hyogo/daiichisekizai/
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