母の日に、“片付け”を贈るという親孝行
先日、久しぶりに友人たちと集まる機会がありました。
話題は近況報告から始まりましたが、気付けば実家や義実家の片付けの話になっていました。
そこで友人がぽつりと言った言葉が印象に残りました。
「親が亡くなるまで、片付けはできないと思ってた」
理由を聞くと、お母さんから「着る服がないから買い物に付き合って」と言われ、一緒に家の服を確認したそうです。
ところが、服は十分すぎるほどありました。
昔あげた服まで残っていたり、穴の開いたカーディガンもありました。
「もう十分着たから処分しようか」
そう声をかけると、
「それは冬の靴下に編み直すから取っておく」
そんな返事だったそうです。
でも、靴下も十分ある。
それでも捨てられない。
友人は言いました。
「もう、死ぬまで片付けられないって思ったよ」
その話を聞きながら、私は片付けの問題ではないのかもしれないと思いました。
物が簡単に手に入る時代ではなく、ある物を工夫しながら大切に使って暮らしてきた世代。
だからこそ、手放すことは簡単なことではないのかもしれません。
いつか使う。
作り直して使う。
もったいない。
そうやって暮らしてきた人たちにとって、手放すことは単なる片付けではなく、生き方の一部なのかもしれません。
そして、これは高齢の親だけの話ではないのかもしれません。
実は娘も以前、
「服は沢山あるのに、着る服がない」
と言っていました。
衣装ケースにしまうと着なくなる。
だから、服を見えるように掛ける収納に変えたところ、散らかさなくなったそうです。
見えると選べる。
見えないと存在しなくなる。
年齢は違っても、人は意外とそんなものなのかもしれません。
実は、その友人はこんな話もしてくれました。
子どもたちが家を出て、家を綺麗に使いたいと思ったそうです。
でも、収納は1階、生活は2階。
綺麗に片付けたはずなのに、
「あれ、どこにしまったっけ?」
と迷子になる。
片付けたのに使いづらい。
そんなこともあるのかもしれません。
収納スペースだからそこにしまう。
それが必ずしも正解ではないのかもしれません。
使う場所に置く。
動作を減らす。
続けられる仕組みにする。
それも片付けです。
だから私は、親御さんに対しても、いきなり「片付けよう」とは言いません。
「転ばないように少し整えようか」
そんな会話から始めることがあります。
片付けないことが悪いわけではありません。
ただ、
着る服がない。
探し物が増えた。
転びそう。
そんな変化が出てきた時は、暮らし方を見直す合図なのかもしれません。
親が亡くなるまで片付けられない。
そう思っている人ほど、片付けではなく、会話から始めても良いのかもしれません。


