福岡の偉人:福岡市 信念を貫き、国家と対立した男・中野正剛

鎌田千穂

鎌田千穂

テーマ:この世界、知らんことだらけ

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さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはいけない人がいます。

国を強くしたいと願い、
時代の先頭に立って世論を動かした人物。

しかし、その情熱は、
やがて自らが支えた国家権力とぶつかることになります。

今回は、
福岡市が生んだ政治家、
中野正剛(なかの せいごう/1886年~1943年)のお話です。

若き日に抱いた「日本を変えたい」という思い

中野正剛は1886年、現在の福岡市で生まれました。

幼い頃から勉学に励み、
東京帝国大学を卒業後は新聞記者となります。

政治や外交を取材する中で、
「この国をもっと良くしたい」という思いを強く抱くようになりました。

やがて政治家へ転身し、
衆議院議員として活躍します。

演説の巧みさは群を抜いており、
多くの人々を惹きつける政治家でした。

強い国家を目指した政治家

当時の日本は、
世界恐慌や国際情勢の悪化によって大きく揺れていました。

中野は、
政党政治の限界を感じるようになり、

「国を一つにまとめ、
強い指導力で進むべきだ」


という考えを強めていきます。

そのため、
戦前の日本で広がっていった国家主義や全体主義に共鳴し、
東方会という政治団体を結成しました。

現在の価値観から見れば、
その思想には批判される部分も少なくありません。

実際に、歴史学者の間でも評価は大きく分かれています。

権力を支持した男が、権力と戦う

ところが、
太平洋戦争が始まると状況は変わります。

中野は戦争そのものよりも、

「政府が国民に真実を伝えていない」

ことに強い危機感を抱くようになりました。
そして東條英機内閣を厳しく批判します。

国家のためと思って支持してきた体制が、
いつしか批判を許さない権力へと変わっていたのです。

当然、
政府は中野を危険視します。

1942年には議員活動を制限され、
翌年には警察による監視や取り調べを受けるようになります。

最後まで曲げなかった信念

1943年10月、
中野正剛は自宅で自決しました。

57歳でした。

自決には、
政府からの強い圧力があったとも、
本人が自ら責任を取ろうとしたとも言われています。

真相は今も議論が続いています。

確かなのは、

国を思って政治家になった男が、
最後には国家そのものと対立する立場になったという事実です。

その人生は、
決して単純な「善人」でも「悪人」でも語ることはできません。

だからこそ、
今も多くの研究者が中野正剛を語り続けています。

編集後記

鳥飼八幡宮の横に立っている銅像の主。
中野正剛のこと、そもそも知りませんでした。
何気なくバスの車窓からみていても、特に気にも留めず。。。

この記事を書くことになり、「あぁ、この人だったのか」と思うわけです。

そんなことを思いつつ、
こうやって記事を書くと歴史を振り返ることになる。

そうすると

「正しい」と信じていたものが、
いつの間にか人を縛る力になってしまう。

そんな場面に何度も出会います。

中野正剛も、
国を良くしたいという強い思いから行動しました。

けれど、
その思いが強かったからこそ、
国家主義へ傾きました。

そして今度は、
国家が間違っていると思えば、
その国家に立ち向かいました。

人は、
立場が変わることがあります。

考え方も変わります。

だからこそ大切なのは、

「誰が言ったか」ではなく、
「その言葉は本当に正しいのか」を考え続けること。


SNSでも職場でも、
自分の正義だけを信じてしまうと、
知らないうちに誰かを傷つけることがあります。

反対に、
自分が間違っていたと認めることは、
決して弱さではありません。

歴史が教えてくれるのは、
信念を持つことの大切さと同時に、

信念を疑う勇気もまた、
同じくらい大切だということなのかもしれません。

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鎌田千穂(産業カウンセラー)

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組織課題を広い視野で捉え、主体性を持った思考と行動力、公私の均衡を図る自律型人材育成を行うこと。分析・統計による業務改善の解決策を示し、個人の悩みを解き放ち、企業の繁栄に繋げることが専門です。

鎌田千穂プロは九州朝日放送が厳正なる審査をした登録専門家です

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