第49回 「ニッポンのジレンマ」のコスパと、科学技術の発達
市場において、狡猾さを有した悪意の人々と取引する場合、相互に駆け引きが起こり、「取引コスト」と呼ばれる多大な無駄が発生することになる。この無駄を節約するために特許制度が制定された。
前回(第49回)コストパフォーマンス・インデックス(CPI)について説明したが、知的財産権の登録や維持に必要な費用はCPIの高い「取引コスト」になるはずであるが、細心の注意を払わないと、意味のない取引コストになり、CPIの値は小さくなってしまう。
このコラムの後半では、知的財産戦略の失敗が会社の倒産の原因になった上場企業の例を説明する。特許や実用新案はただ出願すればよいのではなく、自社の主要製品の技術的範囲は保護出来る権利範囲の内容になっているかが、CPIを高くする上で重要である。
§1 ウィリアムソンの機会主義の仮定
§2 ただ乗りの狡猾さ
§3 ハニックス工業の知財戦略の失敗とそれによる悲劇
§1 ウィリアムソンの機会主義の仮定
2009年のノーベル経済学賞を受賞した米国の経済学者オリバー・E・ウィリアムソン(Oliver E. Williamson)は、人は情報を戦略的に操作したり、意図を偽って伝えたりすることなどにより、自分の利益を悪賢いやり方で追求しようとするという「機会主義の仮定」を説いている。
ウィリアムソンは、「機会主義とは、経済主体は自己の利益を考慮することによって動かされるという伝統的な仮定を、戦略的行動(strategic behavior)の余地をも含めるように拡張したものである」と定義している(O.E.ウィリアムソン著 浅沼萬里 岩崎晃訳『市場と企業組織』、日本評論社、p44、1980.11)。
人間が市場で知らない人々と取引する場合、相互に駆け引きが起こり、多大な取引上の無駄が発生するが、この取引上の無駄は一般に「取引コスト」と呼ばれている。特許出願等には費用が発生するが、「取引コスト」として特許出願しておくことにより、図1に示すように、後発企業のただ乗りを阻止することが可能になる。
【図1】知的財産権は機会主義の狡猾さを阻止する
図1(a)は知的財産権による保護を利用しない場合であり、せっかく研究開発により商品Xを発明し、商品Xをヒットさせても、後発企業にただ乗りされ、市場での価格競争に負け、先行企業が敗退することになる。
特許等の知的財産権の制度は、知的財産権を所有している権利者に独占的にその技術を実施させる専有技術を保証する仕組みである。財やサービスは原則として専有技術に対する対価を支払った者に限り便益を受けることができる。しかし、この対価を支払わずに、模倣により便益を享受するものが「フリー・ライダー(ただ乗り)」と呼ばれる。
ウィリアムソンは、「機会主義は、単純な自己の利益の追求にとどまるものではない。それは、自己の利益を悪がしこいやり方で追求することである」と述べている(O.E.ウィリアムソン著 浅沼萬里 岩崎晃訳『市場と企業組織』、日本評論社、p419-420、1980.11)。
例えば、後述するように、知的財産権による保護を利用しなかったため、ただ乗りをした大企業にまけ、倒産するに至り、社長が自殺した企業が実際に存在している。ウィリアムソンの「機会主義の仮定」によれば、商品Xをヒットさせた会社に追随せんとする後発企業は、ただ乗りという悪徳的狡猾さにより私利追求し、先発企業を倒産や業績不振に至らせるのである。
通常は、市場における相互の駆け引きに伴う多大な取引上の無駄としての取引コストを節約するためには、多くの利害関係者と交渉取引する必要がある。知的財産権は図1(b)に示すように、利害関係者と交渉取引等による膨大な取引コストの発生を防ぎ、知的財産権者の専有技術を保護することができる。
特許出願等には費用が発生するが、利害関係者と交渉取引や企業倒産等の膨大な取引コストに比すればCPIの高い効率的な費用になる。特許出願という低い取引コストの出費をしておくことにより、図1(b)に示すように、後発企業のただ乗りを阻止し、先発企業は収益性を維持することできる。
§2 ただ乗りの狡猾さ
新製品を開発するためには、研究開発費とその時間が必要である。
【図2】機会主義の仮定による法原理
即ち、後発企業は、図2に示すように、研究開発費の差額分だけ安い製品を市場に提供できる。よって、知的財産権による保護がない場合は、図1(a)に示すように、オリジナルな製品を開発した先発企業との競争に市場において、後発企業がただ乗りのいう狡猾さを用いて勝つことが可能となるのである
特許権の存続期間は、延長が認められない場合は、出願日から20年で終了する。特許権の存続期間の満了に伴い、他の製薬会社が同じ有効成分で製造・供給する医薬品「ジェネリック医薬品」という。
医薬品は、その有効成分を一般名 (generic name) で表せるので、欧米では後発医薬品に一般名を用いることが多い。このため、後発医薬品に対して「ジェネリック医薬品」という言葉が使われるようになった。図2から分かるように、「ジェネリック医薬品」は先発の製薬会社よりも、開発期間が短く、研究開発費が少ないことなどから、先発薬の2~8割程度に価格を抑えられる。
ジェネリック医薬品の場合は特許権の存続期間の満了に伴う現象であるが、先発企業が特許権等の取得等、知的財産権による保護をしなければ、後発企業が先発企業よりも2~8割安い製品を売ることが可能になるわけである。
§3 ハニックス工業の知財戦略の失敗とそれによる悲劇
埼玉県のハニックス工業株式会社の悲劇は、図1(a)に示した知的財産権による保護がない場合に該当し、知的財産戦略の失敗例と言えよう。ハニックス工業は、図3に示すように昭和39年(1964年)に設立された日産機材株式会社を基礎としている。
【図3】悲劇のハニックス工業の歴史
昭和40年(1965年)頃から手押し式ブルドーザー・ハンドドーザーの開発に着手し、昭和43年(1968年)にはハンドーザー工業株式会社に商号変更 している。
昭和46年(1971年)に掘削機ミニバックホーの開発し、昭和50年(1975年)も全旋回ブームスイング式ミニバックホーを開発した。そして、翌昭和51年(1976年)7月に、図4に示すような運転部やアームが付いた作業部とエンジン部が分離したミニショベルの実用新案登録をハンドーザー工業が出願している。
【図4】ハニックス工業の公告公報(実公昭61-36438)に記載されたミニショベルの図
その当時は、現在と異なり実用新案は審査主義の時代であった。このため、特許庁の3人の審判官の合議による審判を経て、10年後の昭和61年(1986年)の10月に、図4に示したミニショベル(クローラ型の土木車両)が、実公昭61-36438として公告された。そして、ハンドーザー工業に実用新案登録第1684617号としてミニショベルの権利が認められた。
この昭和61年に、ハンドーザー工業の小旋回バックホーに対し第6回西海(にしうみ)記念賞が与えられている。「西海記念賞」は、埼玉産業人クラブの2代目会長である故西海敏夫(図至夫)氏から贈られた寄付金を基に、創意・工夫・発明考案・技術技能改善に大きな功績をあげた、クラブ会員企業の従業員、およびグル-プを、埼玉産業人クラブが表彰するものである。
悲劇の始まりはここからである。翌昭和62年(1987年)になり、ハンドーザー工業は、作業部とエンジン部が一体化した一層小型化した新型を「超小旋回ミニショベル」として開発した。
しかし残念ながら、ハンドーザー工業は、この新型の「超小旋回ミニショベル」を技術的範囲としてカバーできる特許出願や実用新案登録出願をし、権利化していなかったのである。超小旋回ミニショベルがそんなに延びるとは想像もしなかったということが特許出願等をしなかった理由のようである。
ハンドーザー工業はJ-PlatPatで検索する限り1971年~1993年の間に特許38件、実用新案66件の合計104件の出願をし、その内26件が登録されていることが分かる。ハニックス工業で検索すると特許18件、実用新案44件の合計62件の出願が1990年~1993年の間でヒットする(内登録6件)ので、決して特許出願や実用新案登録出願をしていなかったのではない。
昭和63年(1988年)になり、ハンドーザー工業の廣川昌社長は、公益財団法人日本発明振興協会から「車幅内旋回掘削機の開発育成」を功績内容として第13回発明大賞を与えられている。
平成2年(1990年)7月27日になると、ハンドーザー工業は株式を店頭公開し、ハニックス工業株式会社に商号を変更した。しかし、日本経済新聞、平成6年(1994年)1月23日付の竹居照芳論説委員の記事等によれば、株式の店頭公開と前後して、得意とする超小旋回ミニ油圧ショベルの分野に、大手の建機メーカーが相次いで参入してきた。
知財戦略で大手の建機メーカーの参入を防止するのではなく、ハニックス工業は販売網の強化を図ろうと、各地のレンタル業者を系列化したようである。建設機械の販売にはレンタルが付きものであるが、こげつきのリスクも大きい。大手メーカーといえども商社を介したりしてリスクを回避する。これに対し、ハニックス工業は拡販のためグループ企業を使って自らレンタルを手掛けた。
しかし、知財戦略で自社の技術が保護できないときは、図1(a)に示したように大手メーカー製品との競合などで売れ行きが落ちて来る。売れ行きが落ちてきたにもかかわらず、廣川社長はハニックスグループ各社の実績を落とさないように猛烈にはっぱをかけたということである。このため非連結関係会社への押し込み販売が行われたようだ。売り上げは計上しても、それに見合う費用を計上しないなど粉飾決算も行われていたという。
平成4年(1992年)のハニックス工業の売上311億円、経常利益13億円と報告されており倒産するような内容ではない。しかし、平成4年には、大手A社が超小旋回ミニショベルをモデルチェンジして販売 前年度比40%増の4800台販売 売上300億円(55%増)の業績を上げている。デザインに凝った大手A社の方が、ハニックス工業より販売が好調となったのである。
平成5年(1993年)の4月にハニックス工業の経営実態の一端が表面化し、ハニックス工業が取引していたレンタル業者が4社、事実上倒産した。そして、平成5年の5月26日に東京国税局がハニックス工業株式会社と社長を脱税容疑にて東京地検に告発したという報道があり、その3日後の5月29日にハニックス工業は会社更生法適用を申請した。
東京国税局の告発は、株式公開時の持株売却による利益に対する脱税の嫌疑であるが、主幹事証券会社である野村證券の不手際が推測されている。真相は不明であるが、本来であれば、野村証券が店頭登録にあたっては厳正な審査をしたはずである。
会社更生法は適用されず、12月22日にハニックス工業は倒産(破産)した。そしてその2日後の12月24日に社長が無実を主張して東京国税局で自殺をするに至っている。
なお、1988年に英国に設立された日産機材ヨーロッパ(nisssan kizai Europe ltd)は、1989年にハニックスヨーロッパ(Hanix Europe Ltd)に商号を変更した。その後2000年3月に長野工業(株)に買収されるが、長野工業(株)はリーマン・ショック後の2011年6月27日に民事再生法の適用を申請している。しかし、2011年 (平成23年) 12月に中国に株式を譲渡して新たな長野工業(株)が設立され、現在もミニバックホーは販売されているようである。
ハニックス工業の社長の自殺の直接の理由は脱税容疑に対する抗議である。しかし、デザインに凝った後発の大手A社の超小旋回ミニショベルの方が、先行企業であるハニックス工業の超小旋回ミニショベルよりも販売が好調であった。このため市場での競争に負けたハニックス工業が業績不振になったという背景を考慮する必要がある。
そして、先行企業よりも後発企業の方が販売好調になった理由は、知的財産権により、先行企業の超小旋回ミニショベルが保護できなかったという失敗にあることに十分に注意が必要である。
特許や実用新案は書面主義を採用し、特許権や実用新案権の権利範囲は文言の表現により規定される。特許や実用新案はただ漫然と出願すればよいのではなく、権利範囲を規定している文言が、自社の主要製品の技術的範囲を保護出来る表現になっているかの検討が重要である。
辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
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