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鈴木壯兵衞

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鈴木壯兵衞(すずきそうべえ) / 弁理士

そうべえ国際特許事務所

コラム

第24回 東北帝国大学系の研究者を基軸として日本の科学技術が進歩した

2016年2月20日 公開 / 2019年9月27日更新

テーマ:特許制度の意味

コラムカテゴリ:法律関連

 2015年9月14日に米国のレーザー干渉計型重力波検出器「LIGO」が、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)博士が予言した重力波をついに直接検出したようである。しかし、そのアインシュタイン博士は東北大学をライバル視していたということである。1993年のスティーヴン・ウィリアム・ホーキング (Stephen William Hawking) 博士が仙台を訪れた理由は、『アインシュタイン博士の本を読んでいたら、「やがてわれわれの大学と競争関係に入る大学は東北大学だ」と書いてあったからだ』と答えたと伝えられている。

§1東北帝大が設立されたのは1907年:  

 1886年(明治19年)の帝国大学(後の東京帝国大学)、1897年(明治30年)の京都帝国大学に続き、日本で3番目の帝国大学として1907年(明治40年)に東北帝国大学が設立された。その後、1911年(明治44年)に九州帝国大学が、1918年(大正7年)に北海道帝国大学が設立されている。

 そして、1924年(大正13年)に京城帝国大学が、1928年(昭和3年)に台北帝国大学が設立された後、1931年(昭和6年)に大阪帝国大学が設立されている。そして、1939年(昭和14年)に最後の帝国大学として名古屋帝国大学が設立されている。

 西澤潤一元東北大學総長(第17代総長)が1992年にまとめられた年表のうち、1940年以前の創造的な業績をジオグラフィック基準(地理的基準)で表現したのが図1である(西澤潤一、『NHK 人間大學・独創の系譜』、日本放送出版協会発行、1992年、p31)。

 【図1】1907年~1940年の間の電気・磁気系の創造的業績

 図1は、東北帝国大学(図1及び以下において「東北帝大」と略記する。)が設立された1907年以降、1940年までの間の、電気・磁気系における日本の科学技術の発展に寄与した創造的発明・発見を示したものとなっている。丁度日露戦争(1904~1905年)から第2次世界大戦(1939~1945年)の前の時期に相当するが、この時期において、東北帝大を基軸に科学技術が進展していたことが分かる。
 
 図1の左側のカラム(列)に示すとおり、東北帝大の業績としては、設立後僅か10年目である1917年に本多光太郎先生がKS鋼を発明されている。そして、1925年には八木秀次先生が空中線(八木アンテナ)を発明され、設立後20年目である1927年には 岡部金治郎先生が陽極分割型マグネトロンを発明されている。その後、1934年の本多光太郎先生・増本量先生・白川勇記先生の新KS鋼の発明、1936年の松尾貞郭先生の航空機からの電波の反射の発見と続く。
 
 1934年に八木教授の指示で八木アンテナの実験していた松尾貞郭助手が偶然にも眼前を飛んだ飛行機からの強烈な電波を観測していた。八木教授は直ちに松尾貞郭助手に論文を提出するように指示して、盧溝橋事件の起きた1937年に英独仏の3誌に投稿させている(例えば、Sadahiro Matsuo: A Direct-Reading Radio-Reflection-Type Absolute Altimeter for Aeronautics, Proceedings of I R E, vol.26, No.7, 848 (1938)参照。)。
 
 松尾貞郭助手の論文は欧米に大反響を呼び、翌年のRadio-Craft-Magazine, (1939)やBSTJ, vol.18, (1939)等で続々と紹介されている。更に、フランス語の論文L'Onde électrique, No.199 , (1938)やスペイン語等の非英語圏の文献でも紹介されている。
 
 また、図1に示すように、レーダ技術に必要なマイクロ波を発信させる陽極分割型マグネトロンも八木教授の指導で1927年(昭和2年)に岡部金治郎助教授が開発して特許出願がされ、1928年に特許を取得している(特許第75257号)。
 
 岡部先生は1922年(大正11年)に東北帝大を卒業し、卒業後そのまま東北帝大に奉職し、1925年に助教授になられていた。八木先生の要請で1935年(昭和10年)から大阪帝大理学部助教授就任されているが、上記の特許は仙台の住所からの特許出願である。
 
 1928年に八木先生は米国の学会から招待され、八木アンテナと陽極分割型マグネトロンの研究発表を米国でしていた。米国は直ぐにこの技術の重要性に気が付いたのである。
 
 八木先生は1926年9月3日に日本国特許第69115号を基礎としてパリ条約の優先権を主張して米国に特許出願し1930年1月に米国特許第1745342号を取得している。更に、同日の9月3日に日本国特許第69252号を基礎として優先権主張して米国出願し1932年5月に米国特許第1860123号を取得している。その後,マルコーニ社は八木アンテナの特許に関し八木先生と契約し、RCA社も八木アンテナの特許に関し八木先生と契約している。
 
 八木先生は1926年当時において、グローバルな特許戦略を既にされており、パリ条約の優先権を用いて外国出願をされておられたのである。
 
 第2次世界大戦中、英国は国立物理学研究所で、米国はマサチューセッツ工科大学(MIT)で、それぞれ数千人の科学者・技術者を総動員し、新兵器としてマイクロ波レーダを短期間で完成させたのである。MITのラディエーション・ラボラトリ(MIT Radiation Laboratory Series)という数十冊のシリーズ本の表紙には岡部先生の陽極分割型マグネトロンの絵が使われている。
 
 MITのラディエーション・ラボラトリ・シリーズは、第二次世界大戦後、MITのラディエーション・ラボラトリで働いていた主要な研究者に対し、6ヶ月の間、自分の研究について書くことを可能にするために、米国政府が給与を支払って書かせたものである。
 
 ラディエーション・ラボラトリ・シリーズの 各書籍の前書きには以下のように記載されている:
 ----------------------------------------------------------------------------------
第二次世界大戦中にレーダ及び関連技術を開発した膨大な研究開発の努力は、数百の軍事用レーダ装置(及びいくつかは平時に使用可能な装置)を実現しただけでなく、電子工学や高周波工学の技術分野における膨大な情報や新技術をもたらした。 この基礎的な研究内容は科学技術上大きな価値があり、これらの研究内容をセキュリティが許すかぎり公開するのが最も重要である。
-----------------------------------------------------------------------------------

 米国でも、戦前は、工学は科学に比べて劣るという意識は払拭しきれない状態であった。MITのゴードン・スタンリー・ブラウン(Gordon Stanley Brown) 工学部長が、ラディエーション・ラボラトリ・シリーズを基礎に、科学理論知識に基づいた工学教育手法として導入したのが、その後、スタンフォード大学、イリノイ大学、ウイスコンシン大学などに広まったとされる(C.M. Vest, "The American Research University: From World War II to World Wide Web", Berkeley: University of California Press. pp.98-99 (2007)。 
 

§2 鳥潟右一さんは、秋田県北秋田郡花岡村を本籍とする:

 一方、図1の中央のカラム(列)に示すとおり、1891年(明治24)に設立された逓信省電気試験所において、明治45年(1912年)に、鳥潟右一・横山英太郎・北村政次郎の3氏の協力による研究で、図14に示す世界最初の送受信が同時に可能なTYK無線電話機が出来上がったが(特許第22347号)。
 
 鳥潟右一さんは、秋田県北秋田郡花岡村(現大館市)を本籍とする東北人である。明治39年(1906年)東京帝国大学工科大学を卒業して、卒業後逓信省電気試験所に入所している。秋田県の花岡、小坂、尾去沢鉱山などからも鉱石を採集し、「鉱石験波器」の研究をした。
 
 図1に示した特許第22347号の前に、明治41年8月12日に「無線電信受信用鉱石験波器」の特許出願をし、明治41年12月8日に特許第15345号として登録されている。特許第15345号は、本籍秋田県で東京市赤坂区青山南町寄留として登録されているので、東北人としての記録になっている。
 
 【図2】鳥潟右一の特許第15345号「無線電信受信用鉱石験波器」

 鳥潟さんは明治42年(1909年)に逓信省から米国への留学を命じられている。米国留学任期中にドイツへの転学を命じられ、そこからフランス、イタリアにも出張を命じられた。そして、イタリアではマルコーニに「鉱石検波器」の実演を行ったとも言われている。 
 
 更に、図1の中央の列に示すとおり、1919年に海軍大学校の江口元太郎先生が熱荷電法によりエレクトレットを実現している。
 
 海軍大学校は帝国大学(後の「東京帝国大学」)より2年遅い1888年(明治21年)に設立されている。江口先生は1905年に東京帝国大学理科大学物理学科を卒業して海軍大学校の教官になられている。大正7年(1918年)の海軍大学校令の第2条の2には、「兵術及教育ノ規画ニ関スル研究ニ任セシムル為海軍大学校ニ研究部ヲ置ク」と規定されている。1923年(大正12年)に造兵廠研究部、艦型試験所、航空機試験所を統合して「海軍技術研究所」が設置されている。

 「エレクトレット」とは、半永久的な電荷を持つ誘電体のことである。イギリスの物理学者オリヴァー・ヘヴィサイド(Oliver Heaviside)が永久磁石に倣って、Electron(電子)とMagnet(磁石)を組み合わせて名付けた。エレクトレットは、現在マイクロフォンや発電器等に応用されている。

 江口先生は、カルナウバ蝋と松脂の混合物に電界を掛けながら昇温し冷却後に電界を取り去る「熱荷電法」でエレクトレットが実現できることを発明している。エレクトレットの発明の時期には諸説ある。海軍技術研究所研究員を経てその後海軍技術少将になられた谷恵吉郎博士が、大正8年(1919年)での業績であることの説明をしている(平石英雄、『谷恵吉郎先輩のこと』、金沢泉丘高等学校一泉同窓会誌、第6号、p3、(1982年))。
 

§3 松前先生と武井先生は東北帝国大学出身:  

 図1では東北帝大の出身者を左側の列から右側に向かう矢印で表示している。図1の中央の列の下に示した松前重義先生は、東北帝大の抜山研究室を卒業後、1925年に逓信省電信電話建設局に入省された。
 
 そして、松前先生は1932年に「無装荷ケーブルを用いるシステム」を提案している。この提案に関連する基本特許を3年後の昭和10年(1935年)に出願され、昭和13年に特許第124766号として登録されている。
 
 松前先生の提案前には、長距離ケーブルでは2線間のキャパシタンスの損失を装荷コイル(インダクタンス)で釣り合いをとる装荷式が主流であった。松前先生は、真空管増幅器等を使用し、装荷をなくしたケーブル(無装荷ケーブル)の方が、より効率が良く多重化にも有利であることを提案され、1937年に「無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究」の題名で東北帝大から工学博士を授与されている。
 
 1930年頃~1945年にかけて、この『無装荷ケーブル多重通信方式の研究』に関して、逓信省工務局が取得した特許は227件、搬送電話に関するものは約50件である。
 
 図1の右の列の下に示すように、武井武先生は1927年の東北帝大の卒業であり、一時東北帝大の金属材料研究所助手として研究されていたので、左側の列から右側に向かう矢印で表示している。
 
 1929年に東京工業大学の助教授に就任された武井先生は、師である東京工業大学教授の加藤与五郎先生と共同で1930年にフェライトの発明の特許出願をされている(特許第98844号)。東京工業大学は、東京職工学校が設立された1881年(明治14年)を創立年としているので、実は東京帝国大学より歴史が古い。特許第98844号は、東京工業大学の設立後49年目の発明ということになる。
 
 図1の右下には東京帝国大学の三島徳七先生のMK鋼(特許第96371号)が示されている。三島先生のMK鋼の特許出願は本多先生が特許を取得された13年後の昭和6年(1931年)で、特許登録は昭和7年である。帝国大学中最も歴史の古い東京帝国大学の、設立後45年目の発明が三島先生のMK鋼の特許である。

 本多先生のKS鋼は保磁力がタングステン鋼の3 ~ 4 倍もあり当時の世界記録であった。このため、ドイツのシーメンス、アメリカのウェスタン・エレクトリック(WE)などが使用許可を求めてきた。住友財閥は大正9年~14年のWEとの交渉で、 KS鋼の特許実施権を 30 万ドルで WEに売った。当時のレートは1ドル2円程度であったから、この代価は東北帝大臨時理研の寄附金 30 万円のおよそ2倍である。

 本多先生KS鋼の世界記録が三島先生のMK鋼によって破られた。コバルトを含まないで保磁力がKS鋼の3倍近くあり、磁気的に安定で安価な磁石として工業生産された。

 本多先生はMK鋼をしのぐ新KS鋼(NKS鋼)を開発し、昭和8年(1933年)に特許出願し、2年で王座を奪回し、昭和10年(1935年)に新KS鋼の特許が登録される(特許109937号)。

 新KS鋼の開発には、東北帝大の増本量(はかる)先生や白川勇記(ゆうき)先生らの協力があったとされるが、特許109937号の発明者は本多先生の単独発明者になっている。対応する論文 “On new K.S. permanent magnet” 、Science Reports、 第23巻、1934年、p365-373の方では本多先生、増本先生、白川先生の3人の共著になっている。昭和13年(1938年)に新KS鋼の記録はゼネラル・エレクトリックのアルニコ磁石に記録を奪われる。

 その後も東北帝大の金属材料研究所の本多先生、増本先生、白川先生と東京帝国大学の三島先生の間の特許合戦が続くことになる。

§4 1940年以降も東北帝大系の研究者が創造的業績の中核:

 湯川秀樹博士は1938年に、大阪帝国大(現大阪大)に「中間子論」の主論文1本と参考論文9本を提出し、4月5日に大阪帝国大から学位第584号を取得している。

 湯川先生を1933年に大阪帝国大学に呼び寄せたのは理学部物理学科の初代主任教授八木先生である。当時八木先生は東北大教授も兼任されていた。八木先生が湯川先生を激しく叱責した事件があった結果、日本人で最初のノーベル賞(物理学賞)が受賞できたと言われている。

 八木先生は、1940年(昭和15年)に現在の原子力工学を予言されている。1940年に開催された日本工学大会の学会代表講演の中で八木先生は、将来『中性子工学』という新工学が生まれるに相違ない、と断言されている。
 
 ただし、1957年の『原子力委員会月報』に記載されているように、湯川博士は原子力工学の研究開発は「慎重な上にも慎重でなければならない」と述べ、我が国の原子力政策に反対して原子力委員会の委員を辞任してしまっている(このコラムの第6回参照)。我が国の原子力政策は、ノーベル賞受賞者の金言を無視して強引に推進されてきた経緯がある。

 八木先生が予言された1940年以降について、上述した『NHK 人間大學・独創の系譜』で西澤先生がまとめられた年表を基礎として、ジオグラフィック基準で表現し、更に1950年及び1964年の西澤先生の業績を追加して示したものが、図3である(西澤潤一、『NHK 人間大學・独創の系譜』、日本放送出版協会発行、1992年、p31)。
 
 【図3】1940年~1970年の間の電気・磁気系の創造的業績 

 図3の右から2番目の列に左からの矢印で示した野副鐵男先生は、1926年(大正15年)に東北帝大の眞嶋利行先生の研究室を卒業後、研究室の副手を努められた後、台湾総督府専売局に勤務された。1928年(昭和3年)に台湾に台北帝国大学が新設されると、1929年に理農学部化学科助教授に就任し、有機化合物の構造研究をされた。
 
 1936年に、自然界には存在しないと当時いわれてきた七員環化合物を、タイワンヒノキ材の精油を研究しているときに、野副先生が世界で初めて発見し、「ヒノキチオール(Hinokitiol)」と命名した(日本化学会欧文誌、眞嶋先生還暦記念号、1936年)。
 
 国際純正・応用化学連合(IUPAC)命名法ではヒノキチオールは、「2-ヒドロキシ-4-イソプロピルシクロヘプタ-2,4,6-トリエン-1-オン」であるが、図4に示すように炭素7個が環状に結合した7角形の分子構造を持つ。
  
 【図4】

 既にのべたとおり、ヒノキチオールは1936年の発見なので本来は図1に組み込むべきである。しかし、野副先生ご自身が「ヒノキチオールが七員環の分子構造をもつ」ということに確信がもてるようになったのは1940年であるので、図3の1940年以降の年表に組み込んでいる(淺尾豊信、『故野副鐵男先生の業績と人となり』、有機合成化学協会誌、第54巻、第12号、p77-82、1996年)。
 
 七員環化合物の発見は化学史上に残る偉業であるが、戦時下の台湾の状況では野副先生に研究発表の機会がなく、昭和15年(1940年)春の日本薬学会の年会で発表する程度しかできなかったそうである。青森ヒバ(青ヒバ:ヒノキアスナロ)には、ヒノキチオールが多く含まれている。
 
 図3の一番右端の列に示した川西機械製作所は、川西財閥を率いる川西清兵衛によって神戸市兵庫区に1920年に設立され、第2次世界大戦まで飛行機、繊維機械、衡器、真空管の製造をしていた機械製造メーカである。1949年に神戸工業となり、1968年に富士通と合併している。
 
 1942年(昭和17年)に川西機械製作所の大脇健一博士が、進行波オシロスコープの基礎となる発明の特許出願をし(特許第162634号)、翌1943年(昭和17年)にも、図5に示すような高周波動作可能な速度変調装置を備える超高周波用「ブラウン」管)の発明を特許出願をし(特許第165811号)、進行波オシロスコープの基礎となる発明の研究開発を継続されていた。
 【図5】

 図5に示す構造において、電子源2より発射された電子線は加速電極3で加速され、一対の偏向板で掃引された後、速度変調用電極5及び6によって速度変調される。特許第162634号や特許第165811号に記載の発明では、速度変調用電極5及び6に超高周波電圧が印加されて電子線が速度変調を受ける。その後の研究開発の中で大脇博士は、1948年(昭和23年)頃になり、特許第165811号等に記載された発明の構造を進行波型のオシロスコープに改善する段階に至る。

 大脇博士は蛇行して幾重にも折り曲げられた平行2線を対向させた偏向系で進行波型の構造を実現し、1500MHzという超高周波の電圧波形を観測できる進行波型のオシロスコープを完成した(大脇健一、『進行波オシロ管』、電気通信学会誌、第32巻、第2号、1949年; K. Owaki et al, "The Traveling-wave Cathode-Ray Tube", Proc. IRE, vol. 38, 1208-1212, Oct, (1950)))。

 図3の左から2番目の列の上部には1943年の逓信省電気試験所の小川健男さんと和久茂さんのチタン酸バリウム(BaTiO3)の強誘電現象の発見が示されている。小川健男さんのグループが1935年くらいから研究していた成果である。
 
 図3の一番左側の列に記載した1950年及び1964年の西澤先生の業績については、既にこのコラムの第18回、第22回及び第23回等で述べているので省略する。
 
 図3の左から3番めの列に、左から右に向かう矢印で示したのは東北帝大の工学部電気工学科を昭和20年に卒業の吉田進博士のトリニトロンの発明である(特許第636886号)。吉田博士は、東北帝大を卒業後、東京無線電機、西川電波を経て、昭和28年にソニーの前身である東京通信工業入社して、カラーテレビの開発に着手している・
 
 そして、1967年(昭和42年)の末に、世界初のカラーブラウン管であるトリニトロンを完成している。トリニトロン方式は、(イ)従来3本だった電子銃を1本にし、3本の並列ビームを出すこと、(ロ)色選別を縦型のスダレのようなアパーチャーグリルと呼ばれるフィルターで行うことが特徴の方式である。
 
 売上額が300億円程度の中小企業だったソニーは、その後の30年間で、トリニトロンの関連売上げだけでも1兆円を超えることとなり、各社もトリニトロン方式を使うようになった。残念ながら、現在ではブラウン管方式のカラーテレビは殆どなくなってしまった。

 以上のとおり、東北帝大が設立された1907年以降の日本の創造的発明・発見の歴史をたどると、東北帝大の研究者及び東北帝大を卒業した研究者が日本の科学技術の発展に重要な寄与をしていることがわかる。1993年のホーキング博士の仙台訪問は、東京での講演の後にホーキング博士が東京大学の佐藤勝彦教授に「東北大学の若い人と話がしたい」と伝えて実現したものらしいが、東北大学の若い人の現在の研究成果はいかがなものであろうか。

辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
そうべえ国際特許事務所ホームページ http://www.soh-vehe.jp
 

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