第60回 金融機関との連携を可能にするイノベーションと知的財産
§1 農耕文明が発達して第1次情報革命に至る:
150~170万年前という説もあるが、人類は約40万年前に火の使用を開始したとされ、エネルギ革命を起こしている。「火」という熱エネルギを利用した第1次エネルギ革命である。そして、約1万年前に農業革命が起き、エジプト文明、メソポタミア文明、インド文明、中国文明が発生している。
これらの農耕文明が発達し、食料の増産や人口の増大が生じ、食物の備蓄や集団の秩序の維持のために、文字・数字が発明され、第1次情報革命に至る。ただし文字や記号の発明はもう少し早く、4万年前~1万年前の氷河期の洞窟に32の幾何学記号が残されていたと言われている(ジェネビーブ ボン・ペッツィンガー (著),『最古の文字なのか? 氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く』 文藝春秋)。
紀元前の4番目の千年紀(ミレニアム)を意味する紀元前4千年紀後半の後期新石器時代又は青銅器時代に、最初の文字体系であるシュメールが発明されたと言われている。しかし、漢字は紀元前6000年までさかのぼる可能性があるとも言われている。エジプトヒエログリフ、メソポタミア文字(くさび形文字)やインダス文字等も紀元前6000年位から発達し第1次情報革命に至ったと思われる。
英国のダラム大学(Durham University)のジャミー・テヘラニ(Jamie Tehrani)講師らの研究によれば、ジャックと豆の木等のおとぎ話は約5000年以上前まで溯るということである(Graça da Silva, S. & Tehrani, J. J. ,"Comparative phylogenetic analyses uncover the ancient roots of Indo-European folktales", Royal Society Open Science, vol.3(1):150645, (2016)).
メソポタミア文明の遺跡ではメソポタミア文字の中に数字が登場しているので、文字の誕生とほぼ同時期に数字も発明されていると思われる。
【図1】
そして今から約250年前の1760~1840年頃において産業革命(第1次産業革命)が発生している。「産業革命(Révolution industrielle)」という言葉を初めて使ったのは、フランスの経済学者のジェローム=アドルフ・ブランキ(Jerome Adolohe Blanqui)である(Adolohe Blanqui,"Histoire de l'économie politique en Europe, depuis les anciens jusqu'à nos jours, suivie d'une bibliographie raisonnée des principaux ouvrages d'économie politique, I-II. [TWO VOLUMES].,Paris,Guillaumin (1837))。
その後、1844年ぐらいからフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)やカール・ハインリヒ・マルクス( Karl Heinrich Marx)が「産業革命(Industrial Revolution)」の用語を用いている(フリードリヒ・エンゲルス著、マルクス・エンゲルス全集刊行委員会翻訳、『イングランドにおける労働者階級の状態(The Condition of the Working Class in England in 1844)』、大月書店、1971年、p55)。
共産主義者の用語としては、「産業革命とは、機械の発明と利用を基礎として資本制生産様式が全社会的に確立する過程である」という定義であって、「技術革新一般」を意味する用語ではなかった(石井寬治著、『日本経済史(第2版)、東京大学出版会、1991年、p175)。アーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)がその後再定義することによって「産業革命」が学術用語になった(A. Toynbee, together with a short memoir by B. Jowett, Lectures on the Industrial Revolution of the 18th Century in England, London, 1884, 1887 ed.)。
1733年にジョン・ケイ(John Kay)が経糸の間に緯糸を素早く通すことを可能にする飛び杼を発明し(英国特許第542号)、1764年ごろにジェームズ・ハーグリーブス(James Hargreaves)がジェニー紡績機を発明し1770年に特許を取得している(英国特許第962号)。
そして、1765年にジェームズ・ワット(James Watt)が蒸気機関の改良発明をし、1769年に蒸気機関の英国特許第913号を取得している。又、1768年にリチャード・アークライト(Richard Arkwright)が水力紡績機械を発明し、1769年に英国特許第931号を取得している。これらの紡績機や蒸気機関等の発明は、エネルギの側面からは運動エネルギの発生に係る発明であり「第2次エネルギ革命」である。
ただし、英国ウォーリック大学(University of Warwick)のニコラス・フランシス・ロバート・クラフツ(Nicholas Francis Robert Crafts) によれば、18世紀後半の英国の生産性上昇率は年1%程度で、「産業革命」と称すべき急速な技術革新はないということである(N. F. R. Crafts, "British Economic Growth, 1700-1831: A Review of the Evidence",The Economic History Review New Series, Vol. 36, No. 2, pp. 177-199, (1963))。
第1次産業革命は英国では1780年頃から開始されているが局在性を有し、以下のように、国毎にその開始時期はずれている:
【図2】
§2 第2次産業革命は未だ完結していない:
1860年頃になると、「第2次産業革命」が発生している。この期間にはイギリス以外に図2に示すように、フランス、ドイツ、米国、ロシア、日本の工業力が上がってきている状況にあった。図2に示すイギリスとの相対的な位置付けで、これらの国の技術革新を強調する時に、「第2次産業革命」の用語が用いられる場合もある。
第2次産業革命の時代には、電気以外にも、鉄鋼の分野で1856年にヘンリー・ベッセマー(Henry Bessemer)がベッセマー転炉の米国特許第16082号を、1879年にはウィリアム・ジーメンス(William Siemens)が平炉に関する英国特許第2210号を取得している。更に、石油からプラスチックを製造するような化学の分野でも技術革新が進んでいるが、エネルギ革命の側面から分類すれば、第2次産業革命は電気エネルギの発生と配電に関する「第3次エネルギ革命」である。
1900年にパリで開催された第5回万国博覧会のテーマは「光とエネルギ」であり、動力としての電気エネルギがテーマであり電気エネルギを用いたアトラクションが展示されたが、光の発生源も電気エネルギである。
米国では、トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison)、ニコラ・テスラ(Nikola Tesla)及びジョージ・ウェスティングハウス(George Westinghouse)ジュニアらによる電気エネルギの発生と送電技術が進展した。エジソンは1880年~1881年にかけ直流送電の送電システムの特許出願をし、1882年に特許を取得している(米国特許第263142号、第264642号、第266793号)。そして、エジソンは1882年9月4日、彼のパール・ストリートにある研究所の周辺の59の利用者に対して直流110 Vの電気の供給を開始した。
エジソン電灯会社の社員として交流送電を提案して受け入れられなかったニコラ・テスラはエジソン電灯会社を退社し、自分の会社(Tesla Electric Light&Manufacturing)を設立する。そして、交流モータの特許(米国特許第381968号)を1888年に取得し、ウェスティングハウス社(Westinghouse Electric & Manufacturing Company)に移り、1888年に交流送電の特許(米国特許第382280号)及び交流電源の特許(米国特許第390414号、第390721号)を取得する。
ニコラ・テスラは1891年には100万ボルトまで出力できる高圧変圧器を発明している。ニコラ・テスラは合計111件の特許を取得している。1891年にウェスティングハウス社は世界初の商業用交流発電システムを建設し、高圧送電線を用いた交流送電方式でエジソンと争い、エジソンが敗北した。
一方、アントニオ・メウッチ(Antonio Meucci)が1854年頃に電話の試作品を完成し、1871年に一時的な米国特許を得た。更に、1876年にアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)も電話の特許を出願し特許(米国特許第174465号)を取得している。
又、グリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)は1895年に屋外での無線電信に成功し、1896年にイギリスと米国に特許出願して1897年に特許を取得している(英国特許第12039号、米国特許第586193号)。このため、第2次産業革命は情報革命の側面から、情報の遠隔地へのアナログ情報の即時的伝達を可能にした「第2次情報革命」として位置づけられる。
マルコーニは米国特許第586193号に続いて、多数の無線通信に関する特許を続々と取得しているが、1897年にテスラが出願し1900年に登録された特許第645,576号は送信機と受信機を有した電力伝送に関するものであるが、裁判所はテスラを無線通信に使えることを認識していたとして、特許群をなすマルコーニの特許の一部を無効にしている。
イタリアのエウジェーニオ・バルサンティ(Eugenio Barsanti)とフェリーチェ・マッテウッチ(Felice Matteucci)が1854年にロンドンで内燃機関の特許登録した(英国特許第1072号)。
ドイツのニコラウス・アウグスト・オットー(Nikolaus August Otto)がガソリンで動作する内燃機関を発明し1877年にドイツ特許第532号を取得すると、ゴットリープ・ヴィルヘルム・ダイムラー(Gottlieb Wilhelm Daimler)がこれを改良。二輪車や馬車に取り付け、走行試験を行った。1883年にダイムラーはドイツ特許第28022号を取得している。
1885年、ドイツのカール・フリードリヒ・ベンツ(Karl Friedrich Benz)は、ダイムラーとは別にエンジンを改良して3輪自動車をつくり、1886年にドイツ特許第37435号を取得している。
米国ではジョージ・ボルドウイン・セルデン(George Baldwin Selden)が1879 年に自動車の特許を出願しながら自ら意図的に審査を遅らせ16年後の1895年に米国特許第549160号が許可される。セルデン特許は1895年の登録から17年間の存続期間を得た。1903年創立のフォード・モータ社は、セルデン特許のパテント・トロールに悩ませられながら、1908 年から 1927 年にT型フォードを単一車種として1,500 万台余り生産する大量生産時代が始まる。
第2次産業革命の時代は、消費財が大量生産され、食料や飲料、衣類などの製造の機械化が進む。特にT型フォードの大量生産による輸送手段の革新がなされ、ヒト・モノの移動技術が発達する。
しかし、第2次産業革命は未だ完結していない。既に第6回のコラム(『小泉元首相の「原発ゼロ」はエジソンの発明で可能』)で述べたとおり、エジソンが電流戦争に敗北したのは、19世紀後半から20世紀前半にかけての技術レベルでは、交流から直流への高効率の変換器、及び直流から交流への高効率の変換器が存在しなかったからである。
西澤潤一元東北大學総長(第17代総長)が1950年に99%以上の高効率で交流を直流に変換できるpinダイオードを発明し(特許第205068号他)、更に1976年になり99%以上の高効率で直流を交流に変換できる静電誘導サイリスタ(SIサイリスタ)を発明した(特許第1089074号他)。
このpinダイオードとSIサイリスタを用いることにより第二次産業革命が完結の方向に導かれるのである。
建築家のバックミンスター・フラー氏やエコノミスト(文明批評家)のジェレミー・リフキン(Jeremy Rifkin)氏が提唱しているグローバルなスマート・グリッド網("Global Energy Grid")は、西澤先生のpinダイオードとSIサイリスタによって、より有効に機能するはずである。
リフキン氏の提唱している5つの柱の一つに、「インターネット技術を利用して、すべての大陸の電力系統をインターネットと同じように機能するエネルギー共有インターグリッドに変える」があるが、pinダイオードとSIサイリスタがこの武器である。
§3 第3次産業革命の基軸となるハードウェアは仙台で生まれている:
2015 年 3 月に開催された「エネルギー転換ベルリン会議(“Berlin Energy Transition Dialogue)”」という国際会議で、リフキン氏の「限界費用ゼロの再生可能エネルギーと第3次産業革命への転換 (“The Transition to Zero Marginal Cost Renewable Energy and the Third Industrial Revolution”」というタイトルのプレゼンテーションには、各国の参加者から大きな拍手が送られたと伝えられている。
既に、リフキン氏提唱の「第3次産業革命の経済行動計画」をEUが採択しているということであるが、リフキン氏は、「インターネット技術と再生可能エネルギーが第3次産業革命という21世紀の世界を変えるであろう新しい時代を作ろうとしている」との提案をしている。
リフキン氏提唱の定義と少し異なるが、このコラムでは、1950年以降の光通信の技術を基幹とするインターネット技術の時代を、「第3次産業革命」と定義する。
エネルギ革命の側面から第3次産業革命は光エネルギに係る第4次エネルギ革命である。又、情報革命の側面からは、第3次産業革命は光通信を基軸としたインターネット技術を介したディジタル情報の双方向通信が「第3次情報革命」になる。
読者投票の結果としてジョン・ファーンドン(John Farndon)は、人類史における偉大な発明の第1位はインターネット(The Internet)になったことを発表している(John Farndon, "The World's Greatest Idea: The Fifty Greatest Ideas That Have Changed Humanity", Icon Books Ltd, p.310-317, 2011) 。ジョン・ファーンドンの第5位は「火の使用(Use of Fire)」である。
1950年代から1960年代にかけて、商用コンピュータの普及が始まり、1970年代にはもの作りの現場にコンピュータが使われるようになってきたが、特に、コンピュータのネットワーク接続が低コストで容易になったことが大きい。
2009年のノーベル物理学賞を受賞した英国STL社のチャールズ・クエン・カオ(Charles Kuen Kao)博士が、『あなたは光通信の三要素である半導体レーザ、光ファイバ、pinフォトダイオードをすべて発明しているのに、なぜ日本人は、あなたを「光通信の元祖」と呼ばないか』と、西澤先生本人に直接質問したという。
光ファイバの歴史は古く、西澤先生が光ファイバのすべての構造を発明したというわけではない。既に1926年10月に英国のジョン・ロジー・ベアード(John Logie Baird)が、空洞のパイプやガラス・プラスチックロッドを束にした光の伝導路の特許を出願し、1928年に特許されている(英国特許第285,738号)。なお、ベアードはニプコー円板を用いた機械式のテレビシステムの開発者として知られ、1926年1月には、ロンドンの王立研究所で動画を送受信する公開実験を成功させている。
少し遅れて、1927年には米国RCAのクラランス・W・ハンセル (Clarence W. Hansell)が、ガラスファイバでファクシミリ用の光信号を送る発想を特許出願し、1930年に特許されている(米国特許第1751584号)。英国特許第285,738号も米国特許第1751584号もクラッドのないタイプの光ファイバである。
そして、1960年にアメリカン・オプティカル社(American Optical Corporation)のエリヤ・シュニッツァー(Elias Snitzer)が、クラッドがあるタイプの光ファイバでシングルモード型となる構造を提案している(米国特許第3157726号;E. Snitzer, “Cylindrical Dielectric Waveguide Modes”, J. Opt. Soc. Am. Vol 51, p491 (1961))。
シングルモード型に比して西澤先生の発明は、マルチモード型で、ガラスファイバーのコア内の屈折率を中心から周辺に向かって放物線に沿って連続的に低くなるように変化させると、入射角の異なる光がファイバ内で収束できるという屈折率分布型の光ファイバである。
STL社の高(.Kao)博士の1966年の論文は、ガラスの不純物濃度を下げれば光の損失を低減できるというものであった(C. K. Kao et al. Proc. Inst. Elec. Eng., vol.113, no.7, pp.1151-1158, July (1966))。
1965年秋の、電子通信学会で屈折率分布型の光ファイバの発表をした際に、ある研究所の研究者が、自分の掛けていた眼鏡を外し、「この厚さ1mmのレンズでもいくらか暗くなる。厚さ30cmのガラス板では、真っ暗で何も見えない。ましてや、何十kmものガラスの糸の中を光が届くはずがない。そんなものを通して通信しようなんて・・・・・」と語気鋭く言い放ったと伝えられる。勿論、学会の会場は哄笑の渦と化してしまった(西澤潤一著、『独創は闘いにあり』、p155頁、プレジデント社、1986年)。
世界をつなぐ通信手段の99%は、通信速度と容量で圧倒的に有利な光海底ケーブルであり、光ファイバは通信インフラの根幹をなしている。
インターネット技術のハードウェアの基軸をなす光通信の三要素である光源、伝送路、受信器は、すべて仙台で発明されていることを忘れてはならない(特許第205068号、特許第273217号、特公昭46-29291)。
光源となる半導体レーザの特許第273217号は1957年に、伝送路となる屈折率分布型光ファイバの特許(特公昭46-29291)は1964年に、受信器となるpinフォトダイオ-ドの特許第205068号は1950年に発明されている。図1で第3次産業革命の開始時を1950年としている所以である。
1900年のパリ万国博覧会のテーマであった「光とエネルギ」における光の発生源は、電気エネルギを高温の光源である白熱灯から出射している。第3次産業革命においては光エネルギを、低温の光源である半導体から出射している。即ち、第3次産業革命においては電気エネルギを直接光エネルギに変換している。
辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
そうべえ国際特許事務所ホームページ http://www.soh-vehe.jp