肩の力が抜けてご妊娠
東邦大学二階堂名誉教授に誘われて長野県安曇野市を訪れたのは、2008年7月初旬であった。先生が安曇野に移り住んで薬草研究会を地元の農家の方と立ち上げたのだ。二階堂名誉教授とは2001年の東邦大学での漢方フォーラムからお世話になっていて、懐の深さには大変引きつけられるものがある。そんな先生からの希望もあり、生薬栽培のお手伝いをさせていただくことになった。個人的にも長野県は私のあこがれの土地でもあり、お世話になった方も多い。また、蕎麦には目がない私にとって、戸隠の蕎麦を頂く楽しみも加わる。空気良し、水良しの最高の環境に芍薬や当帰が育っていくことを想像するだけで、心が躍る。芍薬は2003年に東邦大学から頂いた大和芍薬を、むつごろう畑にて育て、その一部を5年後に収穫し、株分けをしたものである。いわば孫株をお返ししたことになる。その時の奮闘記は、漢方の臨床第55巻12号(2008)で詳しく書かせていただいたのでご覧頂けば幸いである。当帰は、2007年に収穫した種から苗を作りお送りしたものである。麻布松柏堂医院の中村篤彦先生から薬草作りを教わり、見よう見まねで出来上がった思いでいっぱいの芍薬、当帰の嫁入りである。
不妊症に力を入れている私たちにとって、芍薬、当帰の品質とその性質を知ることはとても重要である。化学的ではないが、それを知ることは子育てと同じで、自分の手を使って育ててみることが一番だ
。そこから生まれる感覚が漢方のセンスに繋がるのではないかと感じる。ギリシャ神話の医師Paeonに由来する学名をもつ芍薬は、畑でもその姿は堂々たるものである。雑草がまだ賑わいださない春先に、地面から血が吹き出すように芽を出し、その根は地面の中をまるで動脈のように走り回る。芍薬の根を株から引きちぎるときに漂うペオニフロリンの香りはいつも私の緊張を解してくれる。「血」にまつわり、筋肉を緩める性質を感じ取れる。芍薬の新芽が血の色であるように、血を和し、筋中の血行を良くし、腹痛、腹満、頭痛、麻痺、疼痛、咳逆、下痢、腫瘍、お血を和す。が芍薬の性質である。採れたての芍薬の根っこをかじってみると渋みの中にやや苦味を感じる。6年間じっくり成長するだけあり、温暖な静岡であれば太いものは親指以上である。薬剤師、一色直太郎先生(1879-1940)の「和漢薬の良否鑑別法及調製方」によれば、「冬に根をとって粗皮を去らず、日光にて乾燥したものを生乾と申します。所謂赤芍であって、太さ指のやうに能く肥つて硬く、外皮淡紅色を帯び内部白色を、呈せる長い棒状をなしてある味の苦く渋いものがよろしい。細いものや、短く折れたものや、内部の褐色に変じたもの及び虫食ひのあるものはいけませぬ。白芍と申すものは冬に根を採り直ちに粗皮を除いて、沸湯の中に投げ入れて煮沸すると、湯が黒色を呈するやうになります。それを引き揚げて乾燥したものでありますから効力は弱くなつてあります。」と言っている。
媚薬、解毒、強心剤としての強い効果が天使(Angelus)の力に例えられた学名を持つ当帰は、畑の中の姿は芍薬と違いとても控えめで、真っ白でとても可愛らしい花を咲かせる。まるで古き良き日本の女性の姿を見ているようである。湯もみをして、形を整え乾燥させた姿は、女性の横座りに似てたいへん美しい。女性がより女性らしくなれる媚薬と私は考えている。血を和し、寒を散じ、陰証の血証(崩漏、脱血など)を治す。当帰の性質である。また、むつごろう畑で収穫する当帰の根っこは、馬の尾っぽのように毛細根でふかふかしている。掘りたての当帰を握ると暖かさを感じるのは私だけであろうか。味は初め少し甘く、後少し辛い。師匠からは甘すぎると指摘が多いが、私はいつも最高級と自負している。同じく一色先生の良否鑑別では、「冬に根を掘り、虫のつかぬやう又永く貯へられるやう、半ば乾してから熱湯の中にほうり込み、暫くの後取り出して日光にあてて乾したものであります。之を選むのには肥えた大きい鬚根の澤山ついてある馬の尾のやうな恰好で、外皮が褐紫色内部が黄白色で味は始め少し甘く後の少し辛くて能き香と潤のあるものがよろしい。所謂馬尾当帰と申すのがこれであります。」といっている。余談であるが、以前この一色先生縁の富山医科薬科大学に通う学生が実習に来たときに聞いた話であるが、脳の下垂体から分泌されるホルモン(LH,FSH)をなくしたマウスに、当帰を与えたら排卵が起きたということだ。当帰が直接卵巣に働き卵を作る機能に働くのであろうか。たいへん興味深い研究結果を伺った。
畑で生長している「芍薬・当帰」の姿を見ていると意気の合った夫婦のように、とてもバランスが良い。その二味の薬徴は、血の攣急攻迫を和し、血を和し寒を散じ、血気を通暢して、冷えを治す。そして「芍薬・当帰」が主軸の薬方は、「婦人懐妊、腹中こう痛」「婦人腹中諸疾痛」の当帰芍薬散である。当帰、芍薬、川きゅうの血剤と、茯苓、朮、沢瀉の水剤からなり、水血が和せずして腹中がこう痛する証で、色白で水っぽく、冷え症で軽いめまい、頭重感、腰痛がある方が多い。「当帰・芍薬」は手足の冷えに、「当帰・沢瀉」は腹中こう痛、安胎に、「沢瀉・朮」は尿利の異常、めまいに、「茯苓・朮」は水気を順通し、「当帰・川きゅう」は陰性お血を治す。陰性お血とは、古方では特に太陰病期のお血のことを言い、当薬局の不妊症のお客様はほとんどがお腹の冷えを訴える、陰性お血の持ち主である。朝から、生野菜、南国の果物、牛乳、ヨーグルト、健康酢で体を冷やし、運動不足が体に余分な水を増やし、その水が体を冷やす。子宮が冷えて不妊症の原因となっていく。まるで、冬の畑に種を蒔くようなものである。また、その野生の感覚までも鈍らせてしまうのが、ストレスである。昼夜パソコンの前に座り、体を使わず視神経と脳神経で頭をヒートアップさせる。また価値観の多様化が、人間関係を複雑にさせ、取り越し苦労が多くなる。ここまでくるともはや、血中の気薬「川きゅう」や、水気の逆行を下降して、心下悸、煩躁、驚悸などを治す「茯苓」だけでは手に負えず、胸脇の気熱を和す「柴胡」の出番となる。柴胡は甘草とペアー組み、胸脇の気熱を和し切迫症状を緩和し、肝気の鬱熱を散じて心煩を治す。これが柴胡桂枝乾姜湯や、柴胡桂枝湯がよく血の道症に使われる所以であるが、糸が絡んだような不妊症の場合はなかなかうまくいかない。ストレスによる脳の興奮が、ホルモンのバランスを崩してしまうのであろうか。矢数道明先生の漢方処方解説によれば、このような場合、カギカズラの棘を用いるとよいとある。「釣藤鈎は鎮痙鎮静の作用がありこの釣藤と柴胡と甘草が一緒になって肝気の緊張を緩和し、神経の興奮を鎮めるのである。当帰は肝血を潤すといわれ、肝の血行をよくし、貧血を治し、川きゅうは肝血をよく疏通させる。茯苓と白朮は肝気の亢ぶりのため、交感神経が緊張し、その結果胃の障害を起こし、胃内に停滞した水飲をさるものである。陳皮と半夏は、さらに胃内の停水を去らせ、肝の熱をさます。」といっている。抑肝散加陳皮半夏のことである。本方は、神経症、ヒステリー、チック、不眠症などによく用いたり、芍薬、厚朴を合方してパーキンソン病に使われることは有名であるが、私は歯ぎしりと、せっかちな性格を確認して、芍薬を加えて不妊症に用いることが多い。証が合ったときの結果の速さは見事である。釣藤鈎の主成分のリンコフィリンというアルカロイドは中枢に働き血圧降下作用があるが、チックでは、脳内の神経伝達部質に作用し、不妊症に関しては、間接的に性腺刺激ホルモンに何らかの影響を与えるのであろうか。抑肝散(当帰・川きゅう・茯苓・朮・柴胡・甘草・釣藤鈎)は、当帰芍薬散から、芍薬、沢瀉をとり、柴胡、甘草、釣藤鈎を加えたものである。傷寒・金匱から、下ること千年に作られた薬方の為、理論立てることは難しいが、沢瀉を外すことにより、沢瀉湯(沢瀉、朮)の方意がなくなり酷いめまいや、気圧に左右されることは当帰芍薬散ほどではない。「柴胡・釣藤鈎」は、胸脇の気熱を和し、鎮静し痙攣性の素質を治す。「釣藤鈎・茯苓」は、痙攣を鎮静し頭暈を治す。「柴胡・甘草」は、胸脇の気熱を和し切迫症状を緩和し、肝気の鬱熱を散じて心煩を治す。「茯苓・朮」は水気を順通する最も速やかな剤。「当帰・川きゅう」は、血を和し寒を散じ血気の滞りを行らす。加えて、不妊症には芍薬を加味することにより、「当帰・芍薬」の血の攣急攻迫を和し、血を和し寒を散じ、血気を通暢して、冷えを治す。と、「芍薬・甘草」の筋中の血行を良くし切迫症状を緩和し、両腹直筋の異常緊張を緩め急痛、腹痛、疼痛を治す。の働きが加わりお腹の緊張を緩めて、腹部の血行を良くしていくと考える。病位は、成分から見ると多くが太陰病の生薬で構成されるのが、効能的には神経系の症状が中心で、名前の由来からも「柴胡・甘草」働きが大切で、少陽病虚証と位置付けて使用している。
【症例1】 40歳・女性・52kg・164cm
【主訴】 12年間の不妊症(検査異常なし)、お腹が冷たい
【体質】 色白で顔全体がややむくみを感じる、中肉中背、楽天的であるが人に気を使う、舌質は紫色、舌の裏には血管の怒張中程度、足のむくみ、低血圧(最大90,最小50)、便秘(便秘薬毎日使用)、小便1日6行、目の疲れ、首の凝り、腹満、腰痛、生理順調(28日周期)、切痔、
朝食はヨーグルト、キウイ、コーヒー、ワインを好む。
【経過】初回1月の寒い日にご来店。抑肝散加黄連芍薬を30日分処方。再来店は寒さ厳しい2月。たいへん気持ちが落ち着くとのことで、顔がすっきりしている。小便の量も増え、足のむくみもとれ、目の疲れ腰痛もよい。本日生理初日から36日目で、同処方30日分処方。3月中旬にご妊娠の連絡が入る。
【症例2】 31歳・女性・58kg・159cm
【主訴】 2年半の不妊症(検査異常なし)
【体質】 色白で顔のむくみあり、イライラが強い、歯ぎしりが強い、舌苔は白苔、舌の裏の血管の怒張中程度、暑がり、冷えはあり、お風呂は短い、低血圧(最大80、最低60)、大便2日1行、小便1日6回、やや頭痛あり、めまい、立ちくらみ、耳鳴有り、肩こり、首筋の凝りあり、腰痛、生理痛激痛、ビール、ワインを好み、野菜中心の食事、Ⅰ型糖尿病があり、インスリンを1日20単位使用している。
【経過】初回10月に抑肝散加黄連芍薬を処方。ご主人様は、時に運動率が50%をきることがあったので、柴胡加竜骨牡蠣湯を30日服用していただいた。再来店は11月、以前半年服用していた中国漢方を中止、服用後3日で体の中が温まる感じがあり7日後の生理では痛みが1/3へ軽減、生理期間が2日延びた。歯ぎしりは止まる。眠気があり、トイレが近く、胸が痛い。同処方継続後、2日後にご妊娠のご連絡有り。その後、糖尿のこともあり、当帰芍薬散を妊娠養生薬的に服用していただき、翌年7月に無事出産。母子ともに健康である。
【症例3】 33歳・女性・53kg・169cm
【主訴】 子供を考えて1年、生理不順、生理時の頭痛、肩こり、鼻と咽の痛み
【体質】 やせ方、イライラが強い、手足が冷たく疲れやすい、食後眠くなる、舌苔は微白苔、舌の裏の血管の怒張中程度、低血圧(最大98、最低63)、大便1日1行、小便1日6行、蛋白尿あり、頭痛、雨の前にやや頭重あり、目の疲れ、目の痙攣、口唇の乾き、肩、首こり、お腹の張り、ガスがよく出る、冷えると腹痛あり、生理周期は30日、生理痛、帯下あり、アレルギー体質があり、野菜中心の食事、検査では中性脂肪、尿酸が低い、家族歴では甲状腺あり
【経過】初回4月に帰耆建中湯を処方。再来店は5月の終わり、冷えと疲れ、目、皮膚のかゆみがよい。胃が少し気になる。排卵時出血が4日あった。同薬方に人参を加え、7月に来店、食欲がなく腹痛が続き、排卵出血が5日あった。8月には出血がなくなるが、冷えて腹痛あり、「疝気」と捉え当帰四逆加呉茱萸生姜湯で2ヶ月、あまり目立った変化がなく、ストレスで顎が痛む。病院でのホルモン検査は異常なしだが、卵管がつまり気味。11月の終わりに、抑肝散加黄連芍薬に変更、翌12月頭痛は減り、食欲は出てきたが気持ちが悪い。眠気が強くなった。しかし足と頭が冷える。本方2ヶ月で右腿内側に蕁麻疹が出来る。基礎体温は右肩上がりを持続し本日で30日が過ぎた。2月に入りご妊娠のご連絡有り。その後心拍を確認。妊娠咳が出始めたが、甘草乾姜湯で収まり、現在安定期に入り非常に調子がよい。ご主人は、建中湯から、桂枝加竜骨牡蠣湯に変わり、4ヵ月後で精神的にも安定してきていた。
【症例4】 39歳・女性・50kg・165cm
【主訴】 子供を考えて1年
【体質】 色白で、中肉中背、気が沈む、不安感、思い悩む、眠りが浅い、舌苔は微白苔、寒がりで手足が冷たい、のぼせあり、疲れやすく、汗をかきやすい、ねあせ、足のむくみ、物忘れ、大便1日1行残便感あり、偏頭痛、目の疲れ、目の痙攣、口の乾き、から咳、左の肩こり、お腹の張り、生理周期は28日、生理痛、帯下あり、お酒、タバコ、コーヒーを好む。
【経過】初回3月に抑肝散加黄連芍薬を処方。再来店は4月の初め、ぐっすり眠れる。目の痙攣がよくなる。この後生理がなく、5月にご妊娠8週目の報告を受ける。着床した近くに血腫が見つかり止血剤と点滴が始まる。すぐにきゅう帰膠艾湯に変え、6月に入り、13週目となり一安心。6月初め多少出血あり、脹脛のむくみ、お腹の張り、夜につわり症状がある。その後安定が続く。
安曇野から荷物が届いた。紙袋を開けてみると、とても美しい乾燥した当帰が2本入っていた。最後まできっちり天日で干された当帰。毛細根でふかふかしている。一瞬のうちに調剤室はその香りで一杯になった。噛んでみると初め甘く後にピリッと辛い。二階堂先生と薬草研究会の方の血と汗の結晶だ。安曇野の最高の環境のもとで育った「当帰・芍薬」がペアーを組み、いつしか最先端の高度医療でも難しい不妊症の方に役立てる日が来ることを楽しみに、私もより生薬の性質を知り、その力が発揮できるための、証の見極めが出来るよう努力していきたい。
参考文献; 薬徴 (田畑隆一郎著 源草社)
漢法ルネサンス(田畑隆一郎著 源草社)
漢方処方解説 (矢数道明著 創元社)
和漢薬の良否鑑別法及調製方 (一色直太郎著 谷口書店)