ある日本兵の戦士の状況
戦艦大和の最後
「もう艦は無いのか」の天皇の一言で大和は急遽水上特攻することになり、結果何の戦果も挙げられずに4000名以上の乗組員と共に海の藻屑となった。
昭和45年の4月4日、沖縄への航空特攻の上奏に天皇と会った及川古志郎軍令部総長は「もう艦は無いのか」という天皇の一言に恐懼した。
そして翌日の5日には大和部隊による沖縄水上特攻の決定がされた。
6日には大和の伊藤整一第二艦隊司令長官のもとに、草鹿龍之介参謀長と三上作夫参謀が水上機で訪れ水上特攻の説得にあたった。
伊藤はなかなか納得しなかった。狙いは何か。どれだけの期待をしているのか。という問いかけに、三上が「最後は陸上に乗り上げて切込みまで考えている」と言った。伊藤は「そういう戦理に反する戦なら、よく分った」と応じた。
4月7日、戦艦大和は水上特攻で沖縄に向かう途中、米軍の航空機による攻撃にあい撃沈される。水上特攻には大和を主力に10隻の艦艇が7000名以上の乗員を乗せて出撃、4000名以上の戦死者を出した。戦果は皆無だった。
天皇の一言から大和の沈没までわずか3日。
何という忖度か。
これが日本の軍隊だった。海軍兵学校出身のエリートたちがこういう戦争をしていたんだという事実に唖然とする。
理ではなく上への忖度で死地へ送り込まれた日本の兵隊たちの犬死。