ウクライナの闇Ⅲ
戦場で死んでいるのは兵士と市民。
それは、ウクライナの戦争でも太平洋戦争でも同じだ。
国際社会は、ウクライナに勝たせようとして兵器と戦争の資金を送っているが、本当にやらなければいけないことはロシアをやっつけることではなくて、一刻も早く戦争をやめさせることではないか。
長引けば、兵士と市民が、どんどん死んでゆく。
ウクライナの兵士もロシアの兵士も、普通の若者たちだ。戦争なんかで殺しあってはいけない。
太平洋戦争で死んでいった日本の一兵士だった叔父のことを考える。
ニューギニアで戦病死した母の兄、私の会ったことのない叔父。
昭和18年の9月に宇品港から南洋諸島に向かって出港した。
行く先が南方方面だと知った時にどんな思いだったろう。
輸送船に詰め込まれて日本を離れ太平洋に向かうその船内はどんな環境だったろう。
南方方面の戦況を戦友たちと語ったろうか。
生きて再び日本の土を踏めるだろうかなんて考えたろうか。
早く父親を亡くして、苦労して育ててくれた母親のこと祖母のこと、4人の兄弟のこと、考えたことだろう。
記録によると8日間でパラオについた。
途中米軍の飛行機とか潜水艦とかに遭遇しなかったのは幸いだった。南方に送られて海の藻屑と消えた日本の兵隊はたくさんいたから。
パラオは南の島の本当に美しい島。
写真でしか見たことはないけれど、青い透き通るような海、入り組んだ島々、入江、砂浜、青々とした熱帯の植物、白い雲、青く高い空、極彩色の野鳥の鳴き声。
自然の美しさに触れて、生きている喜びをつかの間でもきっと感じたに違いない。
そこは、あまりに美しい戦場。
きっと皆その時はにこやかだったに違いない。
ひと時の喜び。
パラオからニューギニア本島にわたる日、もう帰れないと覚悟を決めたろうか。
凄惨な戦場の島、ニューギニア。
高射砲の戦闘員だったから、防空陣地に配置されて、米軍機の空襲に備え、そして爆撃されながら機銃掃射されながら、空を見上げて戦ったんだろう。
ウエワクは日本軍最後の拠点だった所らしい。
ニューギニア本島の南側から北上してくる米軍の攻撃は日増しに激しくなっていったに違いない。そのころにはジャングルを飢えながらさまよっている日本兵もたくさんいたはずだ。食糧事情も悪くなっていただろう。
そして、マラリヤにかかり、発病して4か月後に死亡している。享年24。
今回、叔父はニューギニアのジャングルの中を飢えてさまよった挙句戦病死したのでは無いらしいと言うことが判った。
最後の場所も特定できた。
それは、遺族にとってわずかな救いとなった。
母はいま認知症が進んでもう何もわからず夢見ごごちで過ごしている。
もっと早くこのことを、母に知らせてあげたかった。
きっと長年の心の痛みが少しは和らいだことだろう。
もっと元気なころだったら、ニューギニアのウエワク付近に慰霊の旅に行けたかもしれなかった。