どうする家康・京都六条河原
大坂の陣が起こり、豊臣家が滅亡するきっかけとなった「京都・方広寺鐘銘事件」。
その鐘の銘文のうち、「国家家康」「君臣豊楽」の個所が、家康(徳川)を呪い、豊臣が
繫栄する・・を意図するものとして、家康が激怒した。
豊臣家の家臣である片桐且元は、「秀頼を江戸に参勤させる」「淀君を人質として江戸へ」
「秀頼が国替えとして大坂城を出る」と、妥協案を示したが、反対に豊臣家からは密告者、
裏切り者と思われ、その後は片桐且元は徳川側についてしまう。
その後は、ご承知の通り大坂冬の陣、夏の陣を通して豊臣家は滅亡してしまう。
最近では、あの銘文は徳川側を怒らすために、豊臣側が意図的に行ったものという説もある。
いまだに「謎めいた方広寺の鐘」である・・・