激励と叱咤の間
例えその時わからなくてもー蘇る言葉
この歳になって、それまで感じたことのない思いがある。
人様に自分がよいと思ったことを教えさせてもらい
それがなかなか伝わらず、相手が思うようにできない時には
どうしたらできるようになるか
自分の頭と体を使って考える。
相手に余裕がなく、多分耳に入っていないだろうと思えるときもあるが
これは決して無駄なことではない。
なぜなら、自分自身がおそらく自分の先生に教えて頂いているに違いなく
耳だけが聞いて、頭ではスルーしてしまっているはずの言葉が
自分がわかると蘇ってくるのだ。
先生は教えてくださっているのに
自分の耳は聞いていない言葉が、きちんと意味を持って
蘇ってくる。
その言葉はリアルタイムで、先生が言われているように
確かな声で言葉で蘇ってくる。
初めは驚いてしまったが、
この頃は、これは自分が明確に理解して
体に通って得たということだと思えるようになった。
先生の言われたことを自分のものにするまで
それだけの時間を要したということだが
大事な言葉は言霊として蘇る。
わかっていないだろうな。
頷いているけれども、まだ入っていないよね。
と思っても、その人が自分自身の力で
試行錯誤し、自分で分かったときには
人によって耳で聞こえるかどうかはわからないが
ちゃんと辻褄が合う。
それは踊りでなくても、その人が踊りを既にやめてしまっていたとしても
その人に役立つ形で、蘇る。
何百回重ねた言葉も誘導も無駄でない。
できることを真摯に伝える。
伝えたことは本当に必要な時
その人が初めて受け取る。