不器用はハンデではない
「丁寧」に「ゆったり」と
昔、先生方に言われた言葉の中で
今、鮮明に蘇り、心に響いてくるのは
「丁寧」と
「ゆったり」
「ゆったり」
もう何十年前に亡くなられた先生のご遺族から
形見分けで頂いた舞台のためのノートに
あった言葉。
ご自身が生徒に注意したいこととして
走り書きしてあったもの。
「ゆっくりではなくゆったりと」
ゆったり、は精神的に落ち着いて、
心の余裕を持って、と言葉の意味だけを追うと
それだけの意味しかなさないが
近年、別の先生が言って下さった「丁寧に」
と合わせると
何と深い言葉なのかと思う。
どんなに技術が優れていても
「ゆったり」とした心持で、「丁寧」に行わなければ
ただの形に過ぎない。
単に一生懸命練習しても
体を使うだけのことであれば
表現にはならない。
踊ることや体を使ってパフォーマンスする人にだけ
関わることではない。
日常生活を快適に過ごしたり、
良い体の状態を保つにも
この「丁寧」に「ゆったり」とは
心の持ち方で全く違うものになってくる。
若い時には字面だけを頭で理解していたことだが
年齢を経るごとに
体が行うことが、単に体の動きではなく
自分自身そのものが何を考え、何をしてきて
今何をしたいのか
それを殊更出そうとしなくても
そこはかとなく自然に溢れ出、滲み出てくるのは
「丁寧にゆったりと」
体を扱おうとすることを
無理なく自然にするからだ。
ただ一生懸命にしている時には
体の動きにしか見えない。
先生方の動きが、踊る時でなくても
ただ座っておられたり、さっと振り向かれただけでも
はっとするような驚きを感じるのは
ご自身の体だけでなく、経験したこと全てを
「丁寧にゆったりと」
自分の行動に反映させて来られたからだろう。
インナーの感覚は心の動きにとても近い
と何度か、このコラムでも書いているが
自分ががしようとすることを
例え早い動きでも、丁寧にゆったりと
先の先に至るまで通していく時
その人の背景がその人を包む。
そういうことをこの年になって
実感するようになった。
もっと早くに踊ることや体を扱う仕事を諦めてしまっていたら
決して感じることがなかった。
心と体は結びついている。
「丁寧にゆったりと」
時間をかけるごとに多くのことが
自分に届く。