固定概念を捨てる
始まりは1人
私が人さまに教えさせて頂くきっかけは
それまで教えて頂いた先生が亡くなられて、研究生のクラスは解散することになったが
子供のクラスは残すことになり、それを引き継ぐことになったことにある。
一旦は断わったものの、私が引き受けなければ閉じることになると言われて
引き受けたものの、先生はおられない、力を貸してくれる人もいない状態で始めた。
その時の気持ちは、大海に放り出された木の葉のようなもの。
本当の1人。
新たに学ぶ場がみつかるまでは、ひとりでレッスンした。
子供たちを教えるのも手探り状態。
どれひとつとっても、何もかも1人でするのは初めての経験で
アシスタントをしていたときのことを反復し、学ぶ場を得てからは
自分が嫌だったことはしない、いいと思うことを試しながら
自分が出来ることをやってきて
今に至る。
もちろん、どんなことをしていても
自分が前向きに継続していけば、協力してくれる人も出てくる。
私はたくさんの人に助けて頂いたし、今も多くの方に助けて頂いている。
が、それは永遠のものではないことを頭に入れておかねばならない。
人はみんな1人で生まれて1人で死ぬ。
道行く行程でも、1人でできることをしていく覚悟がいる。
代わって欲しくても代わりはない。
その時々の出会いを有難く大事にしながら
「始まりは1人」だったことを忘れてはいけない。
いろんな場面で影響を受けたり、共有し合っても
1人で歩くスタンスを忘れてはいけない。
誰かがいなければ歩けない自分では、自分が思うことはできない。
どんなに心細くても、どうしたらいいか判断に悩んでも
本当にしたいことは1人で立ち向かう勇気を持たなければ始まらない。
ダンサー仲間が、あまり症例のない手術を受けることになった。
長く苦しんでいたが、なぜそうなるかも解決法もみつからなかったのが
ようやく希望を持てる状態になった。
手術後も簡単には行かない道のりが待っているが
前を向けば先が見えるのだ。
明るく乗り越えて行こうとしている。
手伝うことも一緒にしてあげることもできないが
励ますことも待っていることもできる。
1人で向かう局面は誰にでもあるが
孤立無援ではない。
1人で越えなければならない細い道を通り抜けたら
手を貸してくれることもある。
1人で向かう覚悟はいるが
自分で扉を開けたら、共有できることはたくさんある。
山を歩き、川を渡り、たどり着いた先には人がいる。
そこで鋭気を養い、また1人で歩く。
人はそういうものなのかもしれない。