決して自分からあきらめないこと
生徒と教師も通る道は同じ
自分がうまくできないことで悩むのは
段階の違いこそあれ、誰にでもある。
自分の体、力量ならこんなものよね~と
あきらめるのか、そこそこに付き合っていくのか
ああでもない、こうでもないとあがいてみるのか
あきらめないで、じっくりみつめながら探っていくのか・・
どれも悪くはない。
時間は人を変化させるからだ。
「自分はこんなもの」と思っている人でも
一生そうかと言うと、意識が変わっていくこともある。
あがいてみる人も、あがくだけではなく何かをつかめるきっかけもある。
あきらめないで、じっくりの人も同じ繰り返しではなく
探し方が変化してくることもある。
カテゴリーは同じように見えて、その人毎に違う。
誰もが少しずつ違うけれど、同じように道を通っていく。
どんな状態もあっておかしくない。
どれも否定されることではない。
生徒として学ぶ立場も教師として教える立場でも
同じことが言える。
生徒さんを見ていて、できないことをいろいろに誘導したり、アドバイスしてもなお
うまく行かない時
観察して、自分が今までの経験ではなかった状態を見て
どうすればできるようになるか考える時
少し離れて経過を見ている時もある。
どこをどうすればよくなるだろう。
そこに全くヒントが見つからない時でも
離れて見ていると「あっ!」と思う時がある。
昨日のその人と今日のその人は同じではないからだ。
その人にすれば「あきらめられている」と感じることがあるかも知れない。
しかし教師もまた生徒さんと同じ。
それまでの対応ではうまくいかない時には悩んで試行錯誤する。
自分の体を使ってみて、どうすればできるようになるか、そのきっかけを探っている。
「これは無理だろう」と蓋をしているのではなく、伝えることのできる瞬間を
待っている時もある。
「あっ!」と思った時、今までになかった感覚で伝えることができた時
教える方も1段階スキルアップしていることになる。
教える方が絶対で、教わる方が受け取るだけではなく、こちらもたくさんもらっている。
他の人ができることを自分がうまく出来ないから、先生に見放されていると思うなかれ。
学ぶ側がいろんな感情に左右され、諦めたり、落ち込んだりするのと同じように
先生の方も自分の能力のいたらなさを嘆いたり、試行錯誤しているのである。
立場や段階は違っても、人間が通る道も感じることも大して違いはしない。
レッスンの場は生徒さんの学ぶ場であると同時に
教師も成長していく場であり、お互いが向き合い作り出していく場である。
教師も成長段階で、できない人にいらだつこともあるけれども
九九をなかなか覚えられないわが子にいらだつのと変わらない。
九九を覚えられないわが子は放り出されるか?
親は投げ出さずに経過を見ながら、いろいろ考えるだろう。
九九が出来るようになったわが子ががんばったと同時に親も成長している。
生徒と教師も同じだ。
何でもご存じの素晴らしい先生もおられるが、
殆どの先生は生徒さんと共に試行錯誤する身は同じである。