激励と叱咤の間
心と体の不協和音に付き合う
最近、少し考えることがあって
帰りが遅くならない日は家の近所を走っている。
だいたい走ることは若い時にさんざん「走らされた」思いがあって
「大嫌い」だと思っていたが
「走らされる」と思っていたから楽しくなくきつく感じていたのだろう。
ペースも走り方も何も考えない、「とにかく早く走って終わらせる」であったし
受動態でいる限り、楽しさも人に与えられるものでしかない。
何かを身に付けたり、自分の血肉にする場合は
いやいややっても身に付きはするが
体から湧き出るような前向きなつながりが、
心と体には生まれてこない。
今は自分の体の使い方を考え、ペースを考えながら、自分がやって見たくて走っているので
同じ走るのでも、全く違う。
短い距離から始めて、数回目で倍の距離を走るようになったが
自分がやりたくて走っていても、同じ距離ながら
毎回、感じ方が違う。
倍の距離を始めて走った時は、走るごとに自然に加速度が増していった。
体の方が自然に疲れない走り方を選択して
「もう少し距離を増やしてみる?」と思えるような高揚感がある。
しかも無駄な力が抜けて、前回張りを感じたところが
楽にほぐれるような走り方になっていて驚いたし、面白かった。
ところが数日前に非常に不愉快なことがあった直後に走った時には
体が不協和音を奏でる。
同じ距離を走りはしたが、気持ちよくない。
走れてはいるが気持ちが干からびているのだ。
体は走っているけれども、心が脱水状態なのだと思った。
気持の方が楽しんでいない。
楽しんでやっていたことをやめようと思うきっかけはこのような不協和音かも知れない。
心と体のバランスが悪い時の不協和音は
見た目にわからなくても自分には感じられる。
嫌なことひとつなく、体の状態も最高な時など
人生の中で数えるほどしかない。
殆どが、アンバランスである時の方が多いはず。
心の方が脱水状態でも、体の充実に引っ張られて、心が満たされることもあるし
体が不調でも、心が充実している時には体がきつさを感じない時もある。
そのあらゆる状態を経験しながら、その時々を調整していくのが
「練習」を重ねる、ということなんだろう。
経験豊かな競技者やダンサーが、困難な状況下でも
安心な様子を見せるのも、練習を重ねた経験が深い、ということからだろう。
自分が嫌いだと思っていたことをやってみて
改めて感じる不協和音との付き合い方。
これはやってみるのに面白そうである。
単に感じて見たかった「体の使い方」は
心との繋がりがなければ、成就しないものらしい。
どんなアプローチからでも、新しいつかみどころがある。