顔の表情、体の表情
自我と体は結びついている
子供だけでなく、大人であっても
何かを始めると
経験の少ない時には、人の意見を素直に聞ける。
見るもの、聞くもの、感じるものが全て新しく
一心に吸収しようとするときである。
無意識に自我が生まれ、技術等の習得と共に育って行く。
ところが経験値が上がってくると
経験と共に「プライド」が一緒についてくる。
習得したものを応用するとともに、
見聞きするものにも慣れ、自負も大きくなり
そこから自分なりに新しいものを産み出そうともがいたり、
それまでの自分とは違う何かになろうとしている時期かもしれない。
この時は、人の意見も聞き入れることもあるが
疎ましく感じたり、言われたくなかったり
感情のどこかで拒否してしまうこともある。
こういう時には、何か体に固さがある。
柔軟性がない訳ではないのに、何か固い。
体の中に滞りがあったり、それ以上いかない遮られているような焦燥感がある。
自分が感じているように
精神的な頑なさが体に出る。
「遮られているような焦燥感」は体にそのまま結びついている。
心が感じているものに体はそのまま従う。
「自我」が最大値になって
自分でも持て余すくらいに膨れ上がっている。
この状態から、「自我」を捨て去り、
あらゆるものを受け入れ、あらゆるものにこだわらないことが
心の思うままに体が従ってくれるだけでなく
まさに心身が一致して、そのことに全くゆるぎがないことへの道であるらしい。
武道の「守破離」と同じことなのだろう。
「守」は
師匠から教えられることを一心に習得して、自分の身に付けていく時期。
「破」は
身に付いたことだけでなく、他の流儀も研究し、自分を更に成長させる時期。
「離」は
独自の境地に至り、とらわれない。
これらは一足飛びには行けず
それぞれの時期を誰もが通り
焦ったり、行けども行けども道が見つからず
同じところを堂々巡りし
飽きずに繰り返し・・・を嫌になるほど、やり続けて
風に吹かれ、雨に打たれ、頭をさんざん打った後々
ようやく、山上に抜ける道らしきものを見出す・・というものだろう。
そこからも道は、生きている限り、果てしなく続いている。
どんなに駆け足でたどり着こうとしても
自分自身の体と心が完全に一致する時を捜し当てるまでには
それぞれの「機が熟す」ときを
進み続けながら、自分を耕し続けなければならないのだろう。
道がはるかに遠くても
これは自分一人の旅である。
旅の途中で、一緒に歩く人がいてもずっと一緒でもなく
荷物の量も、あるく速度も、目指す方向も、どんなふうに行くかも違う。
自分の変化は1歩ずつだ。
どんな段階でも、時間と経験と試行錯誤することを通して
ようやく1歩ずつ。
小さな1歩も、段階が一気に変わる1歩も
歩き続けて、ようやく結びつく。