固定概念を捨てる
自我を持って自我を消す
「自分がこうしたい」
と言う自分自身の独自な考え、意思を持つことは大事なことだ。
何かを産みだしたり作り上げて行くエネルギーは
「自我」がなければ生まれてこない。
人が心の底から
「こんなふうにしたい」という意思の力は
とてつもなく大きい。
これがあるから誰もが思いつかないようなことができたり
実現が難しいのでは?
という難問も越えて行けたりする。
ところが、これがどれほど大きく力のあるエネルギーだとしても
固い質のものになると
人の意見を聞かない、耳に入らない状態になる。
ダンサー、振付家、先生、構成家、1人で仕事する人、家庭の主婦・・
それって私やん^^;・・
強烈な自我がなければ、ダンサーなんてこの歳までやれないし
おんな商売も張れないのである。
毎日コラムやブログを更新して
動画を公開したり、などと言うこっぱずかしいこともできてしまう!
大人しい子供だった私を知っている人はびっくりするだろう。
強烈な自我を持つこと、大いにOKである。
ただし・・
これは柔軟でなければ、新たなものが入って来ない。
自我はなければ困るが、丸く四角く、長くどんな形にもなれ、しなり、
他のものが介在できる扉がなくては、一定のところから
成長したり、角度を変えたり、容量が増えたりすることが難しくなる。
「こうでなければ」を捨て、受け入れにくいことも
とりあえずやってみる。
やってみて、やっぱり嫌だと思えばやめればよいのである。
「扉」が必要、と言うのは入ってくるばかりの扉でなく
捨てたいものも捨てに行ける扉である。
受け入れたはいいが、人の容量は一時に増えない。
1Kのアパートは、いきなり4LDKの部屋にはならない。
以前に「これ!」と思っていたものをいったん捨ててもいい。
ものを捨てるのと違って、いったん受け入れて自分の中に入れたものは
「経験」として蓄積されて、知らないうちに心の部屋の容量が増えている。
いったん捨てた!と思っても何もかも無くなってしまうのではなく
大事なエキスは何らかの形で残っている。
形のあるものとして残らなくても、自分の身になっているのだ。
私は昔から人から言われやすいタイプだった。
非常にわかりやすいタイプなので、先生などからもこてんぱんに言われる。
アップアップして溺れそうになることも度々。
自我抜かれました~と言うフラフラ状態にもなったこともある。
言われるのがいや。恐い。緊張してカチカチ。↓
シャットアウト。受け入れしばらく拒否して静観↓
自分で本当にいいと思うものだけは受け入れ↓
あれ?嫌なものが少なくなってきたゾ?↓
OK! OK! どんと来い!↓
あらら~重たくなってきた(~_~;)↓
よし!要らないものは捨てよう↓
結構風通しいいじゃん(笑)
と、こんな経過を辿って私の自我確立。
今もいろいろ言ってくれる人もある。
歳を重ねてくると、言ってくれる人が少なくなるが
拒否してしまえば勿体ないことだ。
相手が悪意なのか善意なのかは、ある程度わかってくるものだ。
辛口な意見にムッとするのは、自分が一番気にしていることであったりもする。
いったん聞いてみて、害のあるものなら消毒して捨てればいい。
ちっちゃなチキンハートでも生きてるうちに耐性がついている。
まして初めから害があると思うものなら、シャットアウトでいい。
害があっても役立つことだってある。
自分が少し削られるけれど、かさぶたみたいになったものが
新たなみずみずしい皮膚を作り出してくれることもある。
受け入れて見たからこそできる新しい感覚のものである。
痛くて辛ければやめておいても構わない。
耐性が弱い時には無理しなくていいのだ。
この辺りの加減も難しいな~と思うけれど
これも繰り返しのことで少しずつ変化する。
心も体もおんなじだ。
なぜ どうして なんのために言ってくれたことで
自分はそれに対して気持ちが動いているのか
こう考えるのは、心のストレッチだ。
自分の心が全ての答えを知っている。
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