決して自分からあきらめないこと
「怒る」と「叱る」
言語は人間に委ねられた通信手段のひとつであるが
これほど、多くの人が使っているのに
難しいものはないなと思っている。
教師の立場で言えば、
言いたくなくても言わなければならない時もある。
間違った認識で行ってしまうと後々困るとか
その世界のマナー、常識として頭に入れておかなくてはいけないとか
今言わなければわからないこともある。
体を使うことは「あの時のあれ!」ではなんのことかわからないから
その場で言う。
頭から湯気を立てて・・と言うのは滅多にないが
本当に怒っている訳でなくても、そのように言ったほうがいい時もあるし
かなり腹を立てていたとしても押さえて、ピシッと釘をさしておこうかしら
と言うこともあるが、自分が出す言葉は、自分でコントロールできている言葉でありたい。
「怒る」と「叱る」は違う。
教師は我を忘れてはいけないと、私は思っている。
非常事態なら別ですが。
相手が叱られることをもっともだと思わなければ
エネルギーを費やして「叱る」甲斐がない。
「叱る」のはエネルギーがいる。
けれども相手が
「これは自分が良くなるために言われていること」
と、納得して受け入れられる気持ちで
「叱られて」くれるように持っていくのは
もっとエネルギーがいる。
相手が「なんでそんなこと言われないといけないの」とか
「理不尽だ!」とか「ひどい!」とか
すんなり受け入れられない状態になってしまうと
理解に時間がかかる。
また、普段ガンガン怒りすぎると、「怒られる」ことに慣れてしまう。
だから言葉だけでなくて感じてもらえるようにするには
本当に必要な時に「叱る」ことかも知れない。
これは先生業に限らないけれど。
たまに出るから心に響く。
滅多に出ないからこそ効くのである。
体も言葉も心も「コントロール」である。
「うまさきせつこのボディコントロール」の詳細
うまさきせつこモダンバレエ研究所 新ホームページ
ブログ せつこのゆったり自分コントロール