悩みを抱える中で感じる孤独―相談できないという憂鬱な心
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「森のくまさん」という歌がある。
森を歩いていたら、クマに出会う。
歌の中では、そんな出会いも物語になる。
……平和。
ところが、現実にクマが出没すると、話が変わる。
街中に現れる。
住宅地を走り回る。
人が暮らす場所までやってくる。
ニュースになり、注意喚起が出る。
歌なら歓迎。現実なら緊急速報。
クマに餌をやらない。
近づかない。
見に行かない。
そりゃ、そう。
野生のクマは、
こちらの都合に合わせてくれるわけじゃない。
ましてや観光スタッフでもない。
記念撮影のために立ち止まってくれる保証もない。
「今日は見るだけです」と説明しても話が通じるわけではない。
なのに、クマが出たと聞くと、わざわざ見に行く人がいる。
……なぜ?
危険にも、現地確認に行く。
もしかすると、
本人の中では「見物」ではないのかもしれない。
自分の目で状況を確認する。
どれくらい危険なのか、確かめる。
冷静に判断する。
つまり、現地調査。
ただし、調査対象は野生のクマ。
調査員は丸腰。
危険だと説明されても、
自分が実際に危険を感じるまでは、
危険が確定しない。
注意喚起を、
なぜか自分の判断力を試す問題に変えてしまう。
「近づかないでください」と言われても、
「どのくらい危ないのかは、見てみないと」
「遠くにいるんだから大丈夫でしょう。」
「これはショート動画でバズったら稼げる!!!」
……いや、見に行かなくても危ないから。
しかも、こちらはクマを見に行くつもりでも、
クマがこちらを見つけたとき、
何が起こるかは選べない。
自分が見学者のつもりでも、
相手にとっては見学会じゃない。
命がけなんだから何するか想像がつかないのよ。
現地調査、いきなり命がけ。
「自分は大丈夫」の実地試験。
こういうとき、
人は自分を例外にしたくなるのかもしれない。
危険なのはわかっている。
近づくべきではないのもわかっている。
それでも、どこかで思う。
自分なら大丈夫。
少し見るだけなら平気。
すぐに離れれば問題ない。
……その「少し」が、どこまで通用するのか。
相手は、こちらの予定も判断力も知らない野生動物。
「自分は大丈夫」を確認するために、
「大丈夫ではないかもしれない場所」へ行く。
自信の実地試験、
会場選びを間違えている。
童謡の世界観は、持ち出し禁止。
歌の中のクマさんは、
親切な存在として描かれる。
けれど、現実のクマは歌詞を知らない。
こちらが童謡の続きを期待していても、
向こうには向こうの事情がある。
人間が餌を与えれば、
クマが人間のいる場所に食べ物を見つけに来る。
その場の「かわいい」が、
次の出没につながることだってある。
だから、餌を与えない。
近づかない。
わざわざ見に行かない。
また、キャンプ場なんかも餌場になりがちで危ない。
食べ物を落としたり、
捨てたりするんだもの。
食べかす等のゴミは綺麗に持ち帰りましょう。
「森のくまさん」は歌として楽しむ。
現実のクマには、ファンサービスを求めない。
クマが出たと聞いて、
わざわざ会いに行かなくてもいい。
こちらは会いたくても、
向こうも会いたいとは限らない。
……自分の好奇心に付き合ってもらうには、相手が野生すぎる。


