生活困窮者自立支援制度について
かしいかえん。
この名前を聞くと、
「ああ、あったね」
だけでは終わらない。
なぜか、
その頃の記憶まで出てくる。
何に乗ったかは、覚えていない
子どもの頃、
かしいかえんに行った。
家族と行った。
遠足でいった。
友達と行った。
たぶん、
いろんなものを見た。
いろんなものに乗った。
……なのに。
何に乗ったのか、
あまり覚えていない。
何を食べたかも、
かなり怪しい。
なのに、
「かしいかえん」という名前は残っている。
何を食べたかは忘れるのに、
入場券の半券みたいな記憶だけ残っている。
記憶って、
保存基準がよくわからない。
大事なものを
きちんと分類して保管しているわけでもないらしい。
かなり適当。
なくなってから、急に出てくる
2021年12月30日。
かしいかえんが閉園。
営業していた頃は、
「そこにあるもの」だった。
行こうと思えば行けた。
だから、いつでも行けると思っていた。
ところが。
「また行けばいい」と思っていたものほど、
だいたい行けなくなる。
閉園したと聞いて、
「ああ、もうないんだ」
と思った途端。
出てくる。
昔の景色。
一緒に行った人。
その頃の自分。
営業中は気にも留めなかったものが、
閉園した途端、
「私、実はけっこう貴重でした」
みたいな顔をしてくる。
……今さら。
再放送なのに、妙に鮮明
面白いのは、
思い出すのが遊園地だけじゃないこと。
「あの頃、こんなことしてたな」
と、その頃の自分まで出てくる。
しかも。
何十年も前の話なのに、
妙に鮮明だったりする。
しかも再放送なのに、
なぜか昔の自分のほうが鮮明。
今の自分より、
昔の自分のほうが画質がいい。
記憶の編集部、
そこだけ妙に仕事ができる。
「ある」は、案外ありがたい
そこにあるときは、
ありがたさなんて考えない。
いつでも行ける。
いつでも会える。
いつでも見られる。
だから、
わざわざ覚えておこうとも思わない。
なくなって初めて、
「あれ、けっこう好きだったんだな」
と気づく。
かしいかえんも、
そうだったのかもしれない。
閉園してから、
名前を聞くたびに、
それぞれの記憶が出てくる。
誰と行ったか。
何をしていたか。
どんな自分だったか。
かしいかえんは閉園したけれど
遊園地は、もうない。
けれど、
名前を聞けば、
記憶の中では勝手に開園する。
しかも、
入場料はいらない。
何に乗ったか忘れていてもいい。
何を食べたか忘れていてもいい。
細かいことなんて、
もうどうでもいい。
「かしいかえん」と聞いて、
あの頃の自分が出てくれば、
それで十分なのかもしれない。
なくなった場所が、
なくなったあとまで、
こんなふうに残るとは思わなかった。
記憶って、
ちゃんと保存されているというより、
忘れた頃に、勝手に再生される。
しかも、
こちらの都合は一切聞かない。
……なかなか、
自由な保存システムです。



