過剰報道と誤ったネット広告がもたらす影響を考える
産業カウンセラーの鎌田千穂です。
チホズスタジオは福岡市に拠点を置き、オンラインや訪問をあわせた産業カウンセリングを行っています。
他にも下記のことを実施
- 産業カウンセリング及びコンサルティング。
- 人材育成の仕組みづくりのための自発的行動を促す教育研修。
- 「業務改善・組織変革」の企画提案実施。
- チホズ文字分析による人材分析及び提案。
さぁ、今週も金曜日になりました。
福岡を語る上で、忘れてはならない偉人伝。
毎週金曜日のお約束。
今日は、福岡県豊前市出身、
矢頭良一(やず りょういち 1878年6月30日 - 1908年10月16日)のお話です。
明治という激動の時代。
福岡の小さな村から、世界に先駆けて機械式計算機を生み出した天才がいました。
――その名は、矢頭良一。
学びに飢えた少年時代
1878年、福岡県上毛郡(現:豊前市久路土)に生まれた矢頭は、地元の中学に進学。
ですが、わずか16歳で中退。
大阪へ出て、私塾や独学で数学・工学・語学をひたすらに学ぶ日々が始まります。
大学に行くこともなく、ただ知識を欲するままに学んだようです。
独学から生まれた発明
その努力が実を結び、1901年、矢頭良一は日本初となる機械式計算機の構造を考案。
翌年には実機を完成・特許申請、1903年に正式に認可されます。
「矢頭商会」を通じて量産が始まり、いよいよ日本の技術史にその名を刻みました。
森鷗外との出会いと飛行への夢
さらに矢頭良一の才能は、自働算盤だけにとどまりません。
1901年、福岡日日新聞の高橋主筆に発明を披露した矢頭は、小倉第十二師団の軍医・森鷗外に紹介されます。
その支援を受け、東京での研究が進み、英語・漢字の早繰り辞書まで商品化。
次なる夢は空へ。
――飛行機製作という新たな挑戦へと歩を進めました。
志半ばの別れ、そしてその先に続くもの
矢頭良一は世界で最も画期的となる偉業を成しえた。
とはいえ、その機械式計算機を発明をした理由は、飛行機を作るため。
計算機を売って得た現金で飛行機のエンジンの開発を目指しています。
1905年、翼力試験中に結核による肋膜炎を発症。
療養と再起を繰り返しながら、資金援助を受けて工場を建設。
ですが、飛行機の完成を目前にして1907年、その短くも濃い人生に幕を閉じます。
森鷗外は矢頭良一に「天馬行空」の書を送り、その才能と夢を称えました。
矢頭良一の死後も発明は生きる
矢頭の死から約16年後の1923年、日本では大本寅次郎による「タイガー計算機」が登場。
高性能かつ実用性の高いこの機械は、当時の大規模公共事業に欠かせない存在となり、日本の近代化を大きく支えました。
その礎にあったのは、矢頭良一が切り拓いた“計算の自動化”という思想でした。
矢頭良一が描いた未来は、時を超えて次代の技術者たちに受け継がれ、昭和期の高度成長へと繋がっていくのです。
「才能とは、燃やし続けた情熱にこそ宿る」
発明の種を自ら見つけ、磨き、形にした矢頭良一。
矢頭良一の生涯は、努力の先にある“可能性”を、そして“人に託す意志の力”を、私たちに教えてくれます。
あとがき
今回も厳しかったですねぇ。。
なんせ情報が少ない。
いつも思うのは、誰かが文字に起こすから、構成に伝えられるということでしょうか。
そして、もう一つ。
目的のために始めただけの単なる手段だったものが、世の中を動かすものとなる。
自分にとって単なる手段だったとしても、それが後世に残る偉業になることって良くあるお話なんです。
生きているときに、そうなって欲しいなぁと、ついつい思ってしまいます。
資料引用
https://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/pdf/18555.pdf
※ 8ページ
https://japaneserecords.org/japanese-records/6438/
https://merkmal-biz.jp/post/52829/2