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産業カウンセラーの鎌田千穂です。
チホズスタジオは福岡市に拠点を置き、オンラインや訪問をあわせた産業カウンセリングを実施。
・事業内容は産業カウンセリング及びコンサルティング。
・人材育成の仕組みづくりのための自発的行動を促す教育研修。
・「業務改善・組織変革」の企画提案実施です。
他にもチホズ文字分析による、人材分析及び提案も。
福岡県久留米市で生まれた織物・久留米絣。
江戸時代に12~13歳の少女が考えたもの。
そして、日本を代表する電機メーカー「東芝」の創業者・田中久重さんとの意外な関係をご存知ですか?
今回のお話は、久留米絣と電機革命が交差する瞬間に目を向けます。
そして、創業について、協力体制や共同事業の観点。
相談から生まれる合作や共同研究についての捉え方のヒントになりますように。
天才少女・井上伝さんが織りなす物語
1800年頃の江戸時代。
12~13歳の少女、井上伝さんが発案した久留米絣。
その技術革新と彼女の影響力がどのように広がっていったのかを探ります。
久留米絣の歴史
久留米絣は1800年頃、12~13歳だった井上伝さんという少女によって発案されました。
久留米市の米屋の娘として誕生した井上伝さんは、古着の斑点に興味を持ち、白糸を括って藍で染める技術を考案。
この技術を用いて織られた織物は「加寿利」と名づけられ、広く支持されました。
そして、このことで井上伝さんは多くの弟子を抱えます。
井上伝さんの教えを元に多くの機業(はたおりのしごと)が開業されていきます。
40歳の頃にその数は1000人を超え、うち400人ほどは各地に散らばって行ったようです。
粗悪品が出回り消費者の信頼を失うことも
その後、久留米藩の殖産興業において、久留米絣は藩財政を支える主要産業として発展。
久留米絣が人気になったことで需要が急増し、粗悪品が出回ることに。
そこで、現代のブランドや製品における認証マークや品質保証制度に近い制度を取り入れ、更には久留米絣同業組合を発足させ品質安定につなげたようです。
奇跡の出会い:15歳の発明家・田中久重さん
井上伝さんの考案した久留米絣。
ここに「からくり儀右衛門」として知られる田中久重さんが後押し。
田中久重さんの発明と、井上伝さんとの共創が久留米絣に新たな息吹をもたらしています。
田中久重さんと久留米絣の関係
田中久重さんは久留米市出身の発明家。
1813年、当時26歳だった井上伝さんは、新技術の開発に取り組んでいたようです。
田中久重さんの話は下記に書いています。
「からくり儀右衛門」や「東洋のエジソン」と呼ばれた人物です。
田中久重さんに学ぶ、一歩踏み出す力
そこで、15歳の田中久重さんと協力して「板締め技法」という新しい技術を考案。
これにより、絵模様を織り出す技術が確立されました。
井上伝さんと田中久重さんの交流は、久留米絣の発展に大きく寄与しています。
井上伝さんと田中久重さんが教えてくれること
情熱と探求心が分野を超えて繋がり、革新的な成果を生む。
二人の出会いと共創は、現代の私たちには特に意識しておく内容ですよね。
年齢を超えた情熱と創造力
井上伝さんと田中久重さんの物語は、ものづくりに対する熱い想いと探求心が分野の垣根を超える共創を生むことを示しています。
そして、何かを始めるには年齢は関係ないことも伝わります。
そのことで若い頃から情熱を持って挑戦し続けた二人は、それぞれの道で大きな成果を挙げました。
年齢に関係なく、自分の情熱を信じ、他の分野の人たちと協力することで、新しいアイデアや成功が生まれる可能性は無限大です。
大切なのは、熱意を持ち続けることと、異なる視点を受け入れる勇気ではないでしょうか?
自分一人のアイデアは常に偏る
井上伝さんと田中久重さんの共創からもわかるように、新しいことを生み出すには垣根がない方がいいとお気づきでしょうか?
自分の情熱を信じ、他の分野の人たちと協力すること。
年齢を言い訳に、人より劣っていることを言い聞かせて、やらないことを正当化していませんか?
そんなモヤモヤした自分を維持することはそろそろ卒業。
失敗をすることが予測できるのでしたら対策を打てばいいだけのこと。
諦めからは無気力が育まれます。
挑戦をしていくと活力が育まれます。
自分の未来が楽しみになる生き方大事ですよ。
~余談~
このコラムを書きながら、「キテレツ大百科」を思い出すんですよね。
田中久重さんは、キテレツくん
井上伝さんは、みよちゃん
コロ助は田中久重さんの発明したからくり人形
そうなると、田中久重さんの周囲の人を調べてみたくなるんですよねぇ~。