第24回 東北帝国大学系の研究者を基軸として日本の科学技術が進歩した
なぜCOVID-19による死者が欧米に比し日本で少ないかという問いに対し、江戸時代の勤勉革命を考えてみる。1911年の国際会議で感染症対策にマスクが有効とマレーシア人医師伍連德が主張したとき、荒唐無稽な考えであると批判した学者もいたが、既に1900年には、京都帝国医科大学初代学長坪井次郎先生の著した医学書に「マスクで鼻口を蔽うときは安全」と記載されていた。更に日本特許庁に提出されたマスクの特許出願等の件数の変化から、日本人がマスクを着用するようになった経緯を考えてみる(図5参照。)。
§1 ファクターXと日本における勤勉革命
§2 英国のマスクを明治初期に紹介した徳川家侍医
§3 マレーシア人医師伍連德が1911年にマスク着用主張
§4 日本のマスク文化は、米国の「マスク着用義務条例令」から
§5 日本最初のマスクの特許出願は「呼吸器」
§6 インフルエンザの流行の度にマスクの特許出願等が増える
§1 ファクターXと日本における勤勉革命
現在のところコロナウイルスの死者数は欧米諸国では人口100万人あたり200~500人で、日本、韓国、中国、台湾等のアジア諸国では5人程度である。山中伸弥先生は、死亡率が100倍もの差を生む「ファクターX」の解明が重要であると言われているが、抗体検査がその一つの重要なデータになろう。
しかし、厚生労働省が2020年6月16日に発表したデータでは、抗体を保有している人の割合は東京で0.1%という。
さて、経済学者(歴史人口学者)の速水融氏は、西欧の産業革命(industrial revolution)に対比して、江戸時代の日本では人間が労働を肩代わりする資本節約・労働集約型の「勤勉性」を特徴とする勤勉革命(industrious revolution)があったと提唱している(速水融・宮本又郎編、『経済社会の成立 17‐18世紀(日本経済史1)』、岩波書店、(1988年)、 p.36~62)。
速水融氏は、『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ―人類とウイルスの第一次世界戦争』の著作でも有名である。宮崎安貞の「農業全書」が出版されたのが1696年であるが、『農業全書』の他にもその後数多くの農書が出版されていた。江戸時代の勤勉革命においては、限られた土地でいかに効率的に収穫を増やすかという知識財産の活用を日本人は考えていたと言える。
勤勉革命は単なる労働集約な生産ではなく頭脳を用いたきめ細かな作業をする知識集約型の生産革命である。このきめ細かな勤勉革命の遺産が日本の医療従事者にあるのではなかろうか。
まずは医療従事をされている皆様に感謝であるが、日本の医療従事者の自己犠牲を問わない献身的努力が、日本人の低死亡率に寄与している一因ではなかろうかと筆者は考えている。
そして、勤勉革命の遺産を考慮すると、なぜ1918年のスペイン風邪のとき欧米で始まったマスクをする行為が欧米では残らずに、欧米からマスク着用の方法を輸入した日本で、その後も習慣として根付いていたのか?という問いに答えるヒントを与えるものである。平均的な日本人が持っている特性である、細かなめんどくさい仕事をキチンと実施する民度は、勤勉革命が形成したのではなかろうか。
鉄道の運行を1秒単位で管理し、車両をミリ単位で停車する国が日本以外にあるであろうか。まさに勤勉そのものである。
逆にこの勤勉革命の遺産が、日本におけるIT革命やソフトウエアの技術革新が進まない理由であろう。欧米人はめんどくさい仕事は全部コンピュータにやらせて、手を抜くことを優先する合理性を持っているのである。勤勉革命に遅れて西欧で発生した産業革命は、まさに手抜きをするための技術革新である。
新型コロナウイルス対策で国民に一律10万円を給付する「特別定額給付金」のオンライン申請に対して、官公庁側では、一度紙に打ち出して全部手作業で確認作業をするという馬鹿馬鹿しい作業をするのは日本人だからであり、欧米人は決してしないであろう。
今回の日本の政治的指導者のCOVID-19に対する対応は褒められたものではない。台湾でコロナ対策トップの人物から、「日本には台湾の公衆衛生の基礎を作ったあの後藤新平はいないのか?」と言われる有様である。後藤新平が台湾の民政局長を務めたのは1898~1906年までである。その前は1892-93年と1895-98年の2期にわたり内務省衛生局長として辣腕を振るい、その実績を買われての台湾の民政局長である。
マスクの着用は、日本、韓国、台湾、香港、中国に共通する習慣のようであるが、後藤新平とその後継者らがこれらの国に残した功績が大きいのではなかろうか。
1895年の日清戦争終了時に臨時陸軍検疫部事務官長に命じられた後藤新平は、3カ月間で687隻23万2,346人を検疫し、258隻が伝染病患者を乗せていた中からコレラ感染者369人などを隔離し、感染拡大を阻止したという。当時のドイツの皇帝が、「この方面では世界一と自信をもっていたが、この検疫所には負けた」と舌をまいたという。たった1隻のクルーズ船で手一杯になってしまった現在の日本の政治家は猛反省が必要であろう。
この臨時陸軍検疫部には明治31年に京都帝国医科大学の建設委員を任じられ明治32年に初代学長になった坪井次郎先生が派遣されていた。坪井先生は明治33(1900)年に出版した著書の中で、「患者に接近する者は特別の服装を着け、レスピラートルを懸け鼻口を蔽うときは安全なるべし」と記載している(坪井次郎 著、『ペスト病実習』、村上書店、1900年、p.81)。
「レスピラートル(respirator)」とは、呼吸器という意味で、後述するようにマスクのことであるが、マスクが欧米由来の言葉であることが分かる。
坪井先生は1898年に台湾でペストが流行したときにも、台湾に出張し後藤新平の下で2ヶ月働いている。
§2 英国のマスクを明治初期に紹介した徳川家侍医
日本のマスクのルーツは平安時代の女性が首に結ばずに掛け、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様の布の肩掛け(比礼)にあるとされる。十種神宝(とくさのかんだから)という10種の宝物の中に・蛇比礼(へびひれ)・蜂比礼(はちひれ)・品物比礼(さぐもののひれ)の3種がある。
呪術における再生を表す呪布が比礼である。蛇をスカーフ様の布を振って退散させるのが「蛇比礼」で、「蜂比礼」は飛ぶ虫を払い、「品物比礼」は諸々の悪鳥悪獣、全ての妖を払い、邪を退散させるのだという。
遡ると、日本では紀元前の時代から比礼で穢れを取る文化があったとされる。しかし、宮武外骨氏は、「『都の花』所載、流行夜眼遠目の一節に「女の中、風呂敷的の白襟巻したるが多く、いづれも鼻の上より打巻きて口鼻を隠したる、下品にて厭はしきものなり、反歯隠しなど称へて好し」とある。」と記載しているように、白襟巻は明治時代においては、下品とされていたようである(宮武外骨著、『奇態流行史(第四版)』、成光館出版、(昭和4年))。『都の花』は、明治21年明治26年まで、金港堂から発行された文芸雑誌である。
一方、天正18年(1590)年に江戸城普請を始めた徳川家康が、町割を最初に行った日本橋本町3丁目で、天正十九年(1591)に泉州堺の松本市左衛門が屋号を「いわしや」として「調痢丸(ちょうりがん)」という家伝の薬の販売をはじめたとされる。本町3丁目に集団的に居住していた薬種問屋が薬品市場に独占特権を与えられ幕末まで続いた。
明治時代に政府が売薬規制を厳しくすると、幕末には50を数えた薬種店に大打撃を与え、廃業に追い込まれる店も出た。「いわしや松本市左衛門」は、売薬規制に対応するため、明治4年、医療器械部門を独立させるが、西洋医療器具商である松本市左衛門が明治11年に医療機器カタログとして出版した『医療機械図譜』には、図1に示すような黒マスクの図が「英式三層護息器」として紹介されている(松本市左衛門著、『医療機械図譜』、松本市左衛門刊、(明治11年)、p.95-96)
【図1】英式三層護息器、鼻口護息器、ヱフライ氏ノ護息器
図1と同じ図は、日本最初の医療機器カタログとして、明治10年に出版されたイラストと名称のみの全123頁のカタログである西洋医療器具商の石代十兵衛著、『医術用図書』、石代十兵衛刊、明治10年のp.23に既に記載されている。そして、西洋医療器具商の白井松之助氏は1886(明治19)年の医療機器カタログに「ジェフレー氏濾氣器(濾気器)(レスピラートル)」として、図1と同じ図を紹介している(白井松之助編訳、『医用器械図譜』、白井松之助刊、(明治19年)、p.107-108)。更に、いわしや松本市左衛門氏は、明治12(1879)年の郵便報知や明治13年の東京繪入新聞に、「レスピラートル(respirator)」という呼吸器の広告を掲載している。
明治文化研究会の設立に関わった石井研堂氏は、「明治12年(1879年)2月、東京本町いわし屋の広告に“レスピラートル(呼吸器)の世に行なわるる久しく、或いは金属板を以して、或いは金線を以てし、或いは木炭を以てする等、その種類一ならず云々”とあり、風塵または寒暖の急変を防ぎ、呼吸系諸病を防止する功を述べあるごとく(文明開化)呼吸器病者のもちいたるはいと古し。また平尾岳陽堂は、松本軍医総監の伝法なる旨を広告せり」と説明し、松本軍医総監の名がここに出てくる(石井研堂著、『明治事物起原(第7巻)』、筑摩書房、第13編「病医部」)。
軍医総監松本順(旧名松本良順)氏は、順天堂の創始者佐藤泰然の次男として生まれる。その後、幕府奥医師松本良甫の養子となり、将軍の侍医も務め将軍徳川家茂などの治療を行っている。戊辰戦争では奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した。山縣有朋らの薦めで1871(明治4)年に兵部省に出仕し、山縣有朋の要請で帝国陸軍軍軍医部を設立し明治6年に初代日本帝国陸軍軍医総監となった。
松本順軍医総監の次男松本鵬之助氏と、『ペスト病実習』を著した坪井次郎先生は、坪井先生が明治23~27年にドイツに留学したとき、一緒に講義を聴いている。
後藤新平の才能を見出し、内務省衛生局採用を後押しをしたのは、第3代陸軍軍医総監となった石黒忠悳(ただのり)であるが、石黒忠悳は初代総監松本順の勧めで兵部省に入り、1890年に総監になっている。
石黒忠悳は、日清戦争の検疫事業を後藤に担当させることを陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に提案した。この結果、児玉に認められたことが、台湾総督府民政長官に後藤が起用されるきっかけとなったのである。
『明治事物起原』に出てくる「平尾岳陽堂」は、1878(明治11)年に平尾賛平が日本橋に化粧品店として平尾賛平商店を創業し、翌年1879年に屋号を「岳陽堂」としている。平尾岳陽堂は1891年に「ダイヤモンド歯磨」を発売している。
松本順氏が陸軍軍医総監を退職した明治12(1879)年の『郵便報知』に、「レスピラートル(呼吸器)」の広告が掲載されたのである。この「レスピラートル」が、日本で感染症予防を目的とした「黒マスク」の最初の商品と思われる。坪井先生の『ペスト病実習』が出版さらる20年前に、既に「黒マスク」が商品になっていたということである。
明治の初期に西洋医療器具商らが紹介した「呼吸器(respirators)」は、アメリカとヨーロッパで開発されたものである。世界最初として位置づけられるであろう発明は、米国人L.P.ハスレット(Haslett)が1848年に炭塵から鉱夫を守るために開発したマスクで、ハスレットは特許を受けている(米国特許第6529号)。
【図2】L.P.ハスレットのマスクの特許(米国特許第6529号)
1879年にはH.R.ハード(Hurd)が、消防士が煙を吸引しないようにするマスクを発明し特許を取得している(米国特許第218976号)。更に、英国のJ.ステンハウス(Stenhouse)は1854年に活性炭マスクを開発し商品化した。ステンハウスは1860年と1867年に特許を取得し、幅広い用途で注目された。
英国のJ. F .W.ジョンストン(Johnston)は、ステンハウスのマスクを使えば、「健康な人は不安なく病人の部屋を訪ねることができ、衛生管理者は危険を冒すことなく、最も危険なごみ置き場に足を踏み入れることができる」と述べている(J. F .W.Johnston, “The Chemistry of Common Life(10th edition)”,New York: D. Appleton and Company, Volume 2, p.266, 1863)。
日本でも1858(安政4)年に医師宮太柱(みやたちゅう)が、鉄の枠を用い、表面に柿渋を塗った薄い絹の布で梅肉を包み込んだ「福面」を防塵マスクとして発明し、石見銀山で使用したとされている(宮太柱著、『済生卑言』)。済生卑言と共に福面は、その後、生野、佐渡、足尾など全国の鉱山に伝えられた。
ハスレットの発明から10年遅いが、特許の取得はないものの、欧米とほぼ同時期に、塵から鉱夫を守るためのマスクが発明されたといえる。
§3マレーシア人医師伍連德が1911年にマスク着用主張
スペイン風邪に関する著書『1918年―世界中が熱を出す』を出版したL.スピニー(Spinney)氏は、1910~11年にかけて満州で腺ペストが流行した際、中国、ロシア、モンゴル、日本の研究者が、一丸となって感染拡大に対処した経験を受けて、日本では1918年にいち早く公共の場でマスクを付ける動きが始まったと述べている。
1911年に英国、フランス等世界11カ国の専門家が集まって、奉天で開催された第1回国際感染症対策会議で、マレーシア出身の中国の32歳の医師伍連德(ウー・リエン・テー Wu Lien Teh)が空気感染を防ぐため、マスクの着用が重要という主張をしたという。
但し、1900年の『ペスト病実習』に既にマスク着用が記載されているので、伍連德が最初のマスク着用の提案者ではない。
数日後に、マスクは不要と主張していた天津大学の権威であるフランス人医師G.メズニー(Mesny)がマスクなしで病院に行き死亡し、更にスコットランド医師A.F.ジャクソン(Jackson)が奉天で死亡し、マスクを着用するようになったという。
この第1回国際感染症対策会議には、日本の研究者として北里柴三郎先生が参加していた。北里先生はドイツでコッホの下で研究しているときには1890年に自費留学した後藤新平の指導係であった。
§4 日本のマスク文化は、米国の「マスク着用義務条例令」から
1918年の春から米国にスペイン風邪が流行し、10月になりサンフランシスコで「マスク着用義務条例令(The 1918 Mask-wearing Order)」が発令され、マスク着用はサンフランシスコ以外の都市でも義務付けられた。同様の対策が欧州でも採られた。こうした欧米諸国における市民によるマスク着用はその後すぐに日本に紹介され、日本政府のインフルエンザ対策に取り込まれることとなった。
内務省衛生局がまとめた「マスクの使用並構造に就て」では、「加州(カリフォルニア)衛生局報(1919年8月ケロッグ氏)によれば『ガーゼ、マスク』は加州の多くの都市に於て一般に用ひられ且桑港(サンフランシスコ)沿岸に於ける最初の使用を以て知らる。桑港に於ては法令を以て『マスク』使用を実施するに当たり、之が効果如何に対しては興味を以て迎へられ、予防上の効果大なるべきも到底一般に実行せられざるべしとの予期に反しよく一般に用ひられたり。然るに本病の防遏に向かつては何等の効果を見ざりしと云ふ。」とある。「防遏(ぼうあつ)」とは防ぎ止めるという意味である。
内務省衛生局が1919年1月に出した「流行性(はやり)感冒(かぜ)予防(よぼう)心得(こころえ)」には、「咳やクシャミをする時はハンケチ、手ぬぐいなどで鼻、口を覆う」ことが重要であると書かれている。更に、「病人の部屋はなるべく別にし、病室に入る時はマスクを付ける」ことが勧められている。マスクの効果はないとしながら、内務省は日本国民にマスク着用を勧めたのである。
1920年2月頃には5種のインフルエンザ予防対策啓蒙ポスターを内務省が全国に配布しているが、その一つには、「恐るべし『ハヤリカゼ』の『バイキン』!マスクをかけぬ命知らず!」とある。更に1920年12月頃に3種のポスターを内務省が全国に配布しているが、その一つには、「汽車電車人の中では『マスク』せよ、外出の後は『ウガヒ』忘るな」とある。
1920年当時の内務省衛生局長潮恵之輔(うしお しげのすけ)は、後藤新平が内務大臣をしていたときの内務省参事官である。インフルエンザ予防対策啓蒙ポスターは、当時統治下にあった台湾と韓国にも配布されたはずである。
§5 日本最初のマスクの特許出願は「呼吸器」
日本で最初のマスクの特許は明治34(1901)年に山本徳之助氏が出願した発明の名称は「呼吸器」の特許である(特許第5088号)。松本市左衛門の『医療機械図譜』にあるように明治時代においては「マスク」の用語は用いられず、「呼吸器(respirators)」と呼ばれていたようである。
【図3】日本で最初のマスクの特許(発明の名称は「呼吸器」)出典J-PlatPat
発明の名称や考案の名称に「マスク」の単語が出現するのは1920年以降の出願である。最初に考案の名称に「マスク」の用語を用いたのは、大正9(1920)年1月14日に土井昇造氏が出願した実用新案登録第51944号である。1918年10月のサンフランシスコでの「マスク着用義務条例令」を日本の内務省が聞きつけ、日本国民にマスク着用を勧め始めたタイミングと一致する。
「死」におびえた菊池寛が、「スペイン風邪」の感染予防のため、常にマスクを着用した自身の姿を描いた作品「マスク」を雑誌「改造」に発表したのが、大正9年7月である。菊池寛は「マスク」において、毎日の新聞に出る死亡者数の増減に「一喜一憂した」と書いているが、現在のCOVID-19の状況と似ている。大正9年に「マスク」の語が日本中に広がったと思われる。
【図4】発明の名称に「マスク」が出現するのは1920年以降
§6 インフルエンザの流行の度にマスクの特許出願等が増える
スペイン風邪が収まった後も、日本では3年毎にインフルエンザが流行している。即ち、大正11(1922)年に死者12,688人のインフルエンザが流行し、大正14(1925)年には死者10,806人のインフルエンザが流行した。
更に、昭和3(1928)年に死者9,669人、昭和6(1931)年に死者15,673人、昭和9(1934) 年に死者10,142人のインフルエンザが流行した(館林宣夫著、『インフルエンザの疫学』、日本伝染病学会雑誌、第28巻、第5号、(昭和29年)、p.271-289)。
1927(昭和2)年1月の朝日新聞には「マスクをかけうがいを忘るな」と題した記事が掲載され、インフルエンザ感染予防対策としてのマスク着用の重要性が、当時の政府の防疫官の口から語られている。
1929(昭和 4)年の 陸軍の『軍隊衛生学(陸普第 2576 号)』には、流行性感冒(第 362~363 条)の予防として「口覆(マスク)を用い、含嗽(うがい)を励行し、……」とある。
巷では、「スペイン風邪のときマスクが流行し1934年にインフルエンザが猛威をふるうと、再びマスクが流行した」と言われているが、図5の特許出願及び実用新案登録出願件数の増加の傾向をみると、スペイン風邪以降、次第にマスクの流行が広まっていったのではなかろうか。
日本人には法律で命ぜられなくてもマスクを着用する民度と勤勉性があったと言えるであろう。
図5では、特許出願、実用新案登録出願の件数が1957年のアジア風邪、1968年の香港風邪、2003年のSARSの流行した年の翌年等に、急激的に増える傾向が見えるが、横軸は公開(公知)年である。よって図5のデータは、出願から1年半ずれていることに留意が必要である。実際には、大流行した年に大量の特許出願等がされていると思われる。
【図5】スペイン風邪以降のマスクの特許出願及び実用新案登録出願件数の推移。
このように1920年~1934年にかけて3年毎にインフルエンザが流行すると共に、日本におけるマスクの習慣が次第に定着したようである。1934年以降は3年ごとではなくなったが、インフルエンザの流行とともにマスクに対する関心が日本では高まっていったことは特許出願等の件数の増加から分かる。
そして、戦後に植樹されたスギが、樹齢30年程度に達した1970年ごろから次第に花粉生産力が高まると、花粉症が社会問題化し始める。図5は、花粉症が社会問題化する1970年代からマスクの出願も増えている傾向を示している。
弁理士鈴木壯兵衞(工学博士 IEEE Life member)でした。
そうべえ国際特許事務所は、「独創とは必然の先見」という創作活動のご相談にも積極的にお手伝いします。
http://www.soh-vehe.jp