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第18回 産学連携・産学協同によって研究を経営する

鈴木壯兵衞

鈴木壯兵衞

テーマ:特許制度の意味

西沢潤一先生は、「大学の研究が新しい産業を起こすようなものでなければ産学協同・産学連携は一流とは言えない」と力説されている。2015年のノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智先生が1973年にメルク社と契約した産学連携による「研究の経営」の手法は画期的な試みである。しかし、その10年前に、財団法人半導体研究振興会が知的財産の活用を基軸とした産学連携による「研究の経営」をスタートしていた。

§1 この子の経営をお願いします(源氏物語)

  我が国の政府が今後策定する予定の「第5期科学技術基本計画」に向けた中間取りまとめ(案)では、「科学技術イノベーション人材の育成・流動化」がトップの話題になっている(平成27年5月28日総合科学技術・イノベーション会議第9回 基本計画専門調査会資料)。

 臨済宗龍源寺の松原泰道師の本で「経営という言葉は人材育成という意味である」ことを学んだ大村智先生(学校法人北里研究所顧問・北里大特別栄誉教授)は、その後、「研究を経営する」という言葉をよく使うようになられたそうである(大村智、『新しい微生物創薬の世界を切り開く』、JT生命誌研究館発行 季刊「生命誌ジャーナル」、第84号、2015年3月16日)。

 お釈迦さまの教えなどが書かれているのが経典である。仏教的な教えでは「経営」の「経」とは「筋道(道理)を通すこと」であり、「営」は、「経」を「行動に現す」ことという意味になる。

 つまり、「経営する」とは、お経を営むことであり、自動詞としては「人として生きる道の教えを実践する」や「修行する」等の意味になり、他動詞としては「人間を教育する」や「育てる」等の意味になる。

 「経営」の語は禅宗の寺に由来するという説もある。道元禅師(1200-1253年)は、『正法眼蔵』の『坐禅践 』 (1242年)で、「座禅を人間の呼吸をしずめる経営(息慮凝寂の経営)に止まってはいけない」と戒めている。

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これ坐禅の、おのが身心をきらふにあらず、真箇の功夫をこころざさず、倉卒に迷酔せるによりてなり。かれらが所集は、ただ還源返本の様子なり、いたづらに息慮凝寂の経営なり。観練薫修の階級におよばず、十地・等覚の見解におよばず、いかでか仏仏祖祖の坐禅を単伝せん(『正法眼蔵』「坐禅箴」巻)
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 「いたづらに息慮凝寂(そくりょぎょうじゃく)の経営なり」 とは、いたづらに無我無心になって寂静の世界を凝視しようとしているという批判である。しかし、松原師によれば『源氏物語』にも「経営」の語が既に用いられているということである。栄西禅師(1141-1215年)や道元禅師よりも、さらに溯る1005年(寛弘5年)に『源氏物語』は初出している。

 大村先生の「生命誌ジャーナル」の第84号に記載された内容とは齟齬があるが、松原泰道著、『般若心経のこころ』、プレジデント社、2011年、p156-157には、以下のように記載されている。

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『源氏物語』の中では光源氏がわが愛娘を地方へ勉強にやるときに、今なら「どうぞいたらぬ娘ですが、よろしくご指導ください」と言うところを、「この子の経営を万事お願い致します」と言っているのです。これは、単に勉強ということだけではなく、娘の人間形成もよろしくお願いします」ということを含んでいるわけです。
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 「わが愛娘」とは、光源氏の唯一の娘とされる明石の姫君(「明石の女御」、「明石の中宮」)のことであろうか。

 「生命誌ジャーナル」の第84号において、研究を経営するには以下の4つの要素が必要であると大村先生は説かれている:

 (a)こういうものが必要だという研究のアイデアを出すこと
 (b)アイデアを実現するための資金を導入すること
 (c)人材育成を行うこと
 (d)得られた成果の社会還元

(a)~(d)の4つの要素が揃って始めて、研究を経営したことになるというのが大村先生のお考えである。大村先生は、4つのうちの(c)の「人材育成を行うこと」が非常に重要であると言われている。

 大村先生は、「お金がなくて研究できないというのは言い訳だ」と言われている。大村先生が1973年に米国のメルク社(北米ではMerck & Co.、その他の国や地域ではMerck Sharp & Dohme)が年間8万ドルを向こう3年間大村先生に支払うという契約をメルク社と締結した産学連携の手法は、当時としては画期的な試みとされている。

 しかし、更にその約10年前の1961年に財団法人半導体研究振興会が設立されている。

§2 1961年に産学協同の拠点として非営利の財団法人が設立

  財団法人半導体研究振興会については、このコラムの第5回(『特許制度は創意工夫により人類の幸福を願う制度である』)で既に紹介している。

 スタンフォード大学工学部長フレデリック・ターマン(Frederick Terman)教授が中心になって、大学の学生のためというよりも、科学知識の発展と公益のために設立されたスタンフォード研究所(Stanford Research Institute)が、1946年に米国のシリコンバレーに設立された。このスタンフォード研究所が財団法人半導体研究振興会の「半導体研究所( Semiconductor Research Institute)」のモデルとされたようである。 

 スタンフォード研究所の設立の前の1938年に、シリコンバレーにはターマン教授の指導でヒューレット・パッカード社が創業されていた。そして、1955年には、ショックレー半導体研究所(Shockley Semiconductor Laboratory)がシリコンバレーに設立されている。

 1949年に日本学術会議が設立され、これを受ける形で総理府の外局として科学技術庁が設置されたのが1956年である。そして、1961年に新技術開発事業団が設立される。新技術開発事業団は、内閣総理大臣が科学技術庁に監督を委任した特殊法人である。この1961年に財団法人半導体研究振興会も設立された。

 後にJSTとなる新技術開発事業団は、当時大学紛争の影響により、各企業、大学での産学連携が及び腰になる中、同じ年に設立された財団法人半導体研究振興会の研究、開発を支援していくことになる。
 
 西澤潤一元東北大學総長(第17代総長)が1950年に出願した「pinダイオード」(特公昭28-6077号公報:特許第205068号)、1952年に出願した「pinフォトダイオード」(特公昭30-8969号公報:特許第221218号)や1957年に出願した「半導体レーザ」(特公昭35-13787号公報:特許第273217号)等の、我が国の新しい産業となる半導体産業の基幹となる特許を、西澤潤一先生が贈与する形で、財団法人半導体研究振興会が設立されたのである。

 1963年に仙台市青葉区川内に最初の研究棟として「半導体研究所」の1号棟が建てられ、専任の研究員、研究補助員、実験補助員や事務職員が配置され、西澤潤一先生が自ら主任研究員になられた。
  
 財団法人半導体研究振興会は、西澤先生が贈与された特許を始め、その後の研究成果から生まれた新たな特許等によるライセンス収入等を研究員や事務職員等の人件費をも含めたすべての研究費の財源とする非営利の財団法人であった。

 1961年の設立当時はまだ「産学連携」の用語は用いられておらず「産学協同」と言われていた。この財団法人は、大学の研究と産業界との橋渡しを目的とする産学協同の拠点であった。大学の独創的な研究成果によって、新しい産業を起こすべき使命を帯びていたが、財務経営の面では東北大学とは全く独立な組織であったため、研究員等の人件費を含むすべての研究費を研究成果のみによって捻出する「研究を経営する」能力が求められる財団法人であった。

 米国GE社のR.N.ホール(Hall)よりわずか18日早く出願された「pinダイオード」の特許は、光通信の受信器としてだけでなく、種々の電子デバイスの基礎をなすパイオニア技術である。このため、米国に依存する事例の多かった日本の半導体産業の創生期において、円の海外流出を防ぐ特許として機能し、日本の産業界に貢献した発明である。1955年頃のGEとの契約を我が国の外貨審議委員会が認めない根拠となった重要発明である。

 イオン注入法は、現在の微細化された半導体集積回路の製造には必須のプロセスであるが、これも西澤先生の発明である(特許第229685号)。

§3 財団法人半導体研究振興会と我が国の産業界

 特許第205068号は、現在の高周波バイポーラトランジスタの約8割が実施しているpnip型バイポーラトランジスタをも権利範囲に含むものと解される。当時、この特許の実施契約に応じたのは、ヒューレット・パッカード社のみであり、日本の産業界からこの特許に対する対価の支払いはなかった。

 ヒューレット・パッカード社の1978年 - 1992年のCEOは、1985年に提出されたヤングレポートで有名なジョン・ヤング(John Young)である。ヒューレット・パッカード社は、現在もシリコンバレーに本社をおいている。

 その後、特許第205068号に関する争いは紆余曲折を経ることになり「研究の経営」の困難さを味わうことになる。最終的に我が国の主要半導体企業が総額で20億円を財団法人半導体研究振興会に支払うことで決着がついた。20億円は、財団法人半導体研究振興会の半導体研究所の2号棟を建てるための土地の購入と研究棟の建設費に充てられた。

 我が国の半導体産業の規模からして20億円はあまりにも少ない額である。本来であれば、大村智先生がメルク社から得たとされる250億円よりも遙かに高額なライセンス収入を財団法人半導体研究振興会が見込めたはずである。

 インターネットは、光通信の発達を抜いては語れない。この光通信の三要素となる光源、伝送路、受信器のアイデアは、すべて日本が出生地であり、起源である(特許第205068号、特許第273217号、特願昭39-64040号)。しかも、同一の発明者により三要素のアイデアのすべてが提案され、財団法人半導体研究振興会に寄贈されていたのである。

 2009年のノーベル物理学賞を受賞した英国STL社の高(C.K.Kao)氏が、『あなたは光通信の三要素である半導体レーザ、光ファイバ、pinフォトダイオードをすべて発明しているのに、なぜ日本人は、あなたを「光通信の元祖」と呼ばないか』と、西澤先生本人に直接質問したという。

 「研究の経営」は難しいものである。光ファイバの特許出願(特願昭39-64040号)は特許査定され、一旦公告されたものの、公告後に日本の産業界から猛攻撃を受けた。そして、公告後の特許異議申立の手続きで「分割出願の要件」を具備していないという判断によって、特許として登録されるまでに至っていない(鈴木壯兵衞、『分割出願の客体的要件についての考察』、知財管理、第51巻第1号pp.27-40、2001年参照。)。

 「分割出願の要件」はその後改訂された。現在の法律によれば光ファイバの特許は、歴史に残る重要特許として成立していたはずである。当時の特許法に瑕疵があったというべきである。研究を経営するためにはそれをサポートする制度の見直しや産業界のサポートが必要である。

 連合軍を形成して光ファイバの特許出願(特願昭39-64040号)をつぶした大企業グループの内の1社の社長が、2000年代に入り、財団法人半導体研究振興会の理事長に謝罪に訪れたと伺っているが、時すでに遅しである。

 1957年の半導体レーザの特許出願の2年後に同じ(むしろ技術レベルは劣る)内容を提案した旧ソ連のレベデフ(Lebedev)研究所のバゾフ(N.G.Basov)が1964年にタウンズ(C.H.Townes)、プロホロフ(A.M.Prokhorov)と共に、「メーザ、レーザの発明及び量子エレクトロニクスの基礎的研究」の業績で、ノーベル物理学賞を受賞している。
 
 レーザの特許はタウンズが取得している(Schawlow, Arthur L., and Charles H. Townes, 米国特許第2,929,222号)。しかし、コロンビア大学で37才の学生だったグールド(Gordon Gould)が1957年11月に光誘導放出を作り出す装置を考案し、この光をLASER(Light Amplification by Stimulated Emission of Radiation)と名づけ、簡単な計算式とLASERの名前を自分のノートに記録していた。

 グールドとタウンズの20年間に渡る訴訟の結果、グールドに特許が認められ、米国では、真のレーザの発明者はグールドであるとされている。しかし、特許第273217号の出願日はグールドの研究ノートの日付よりも約7月早い1957年4月である。西澤先生は、「半導体レーザ」の発明者と言うより、「レーザ」の発明者と呼ぶべきではなかろうか。

§4 研究設備を手作りしても研究の経営は困難

 半導体装置の研究分野の進歩は急激であり、それに用いる半導体の製造装置は億単位の高額のものが殆どである。研究の経営の困難性から、半導体研究振興会の研究設備の殆どを研究員自らが自作して研究費を縮小していた。

 空気を清浄にするHEPAフィルタや清浄にした空気を送風するシロッコファン等の部品を購入し、クリーンルームも研究が終わった夜間における手作り作業で完成していた。下の写真のような水道配管やガス配管も研究員が自ら行なっていた。

 又、半導体研究振興会の研究員、研究補助員、実験補助員のほぼ全員が電気炉を巻く技術を持っていた。2014年の赤崎先生と天野先生のノーベル物理学賞の受賞に係る発明は、電気炉の故障がその一因になっているとのことである。半導体研究振興会の場合であれば、赤崎先生と天野先生のような発見には至らなかったであろう。電気炉の故障はその実験の担当者が直ちに自ら修理してしまうからである。

 研究設備を手作りにしても人件費は圧縮できないので、研究費の半分程度が、研究員、研究補助員、実験補助員や事務職員に支払われる人件費であった。1990年代において年間4~5億円の研究費を研究成果から得る必要があった。

 上述したように「産学協同」ではなく「産学対決」となった部分もあった。日本の産業界の知的財産権を巡る非協力的態度や抵抗等もあり、研究の経営は非常に難しく、財団法人半導体研究振興会は2008年3月31日をもって、財政難により無念の解散に至る。

 東北大學に寄贈された財団法人半導体研究振興会の土地、研究棟(2号棟。3号棟)や設備(評価額24億円)は現在「西澤潤一記念センター」として開放されている。半導体研究所の1号棟は東北大学の「西澤記念資料室」となって、東北大学の川内キャンパスに残っている。

§5 八木先生の経営の系譜

 大正14年(1925年)に八木アンテナ(特許第69115号)を発明した八木秀次先生は、我が国最初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹先生を経営(指導)したことでも有名である。

 湯川先生は京都大学の出身であるが、八木先生が大阪大学に呼び寄せた。そして、大阪大学で研究しているときに論文が出ないので、廊下を隔てた隣の部屋まで聞こえる位の大声で八木先生が湯川先生を激しく叱責した。この叱責の半年後に提出したのが、ノーベル物理学賞を受賞した論文である(松尾博志著、『電子立国日本を育てた男 八木秀次と独創者たち』、文藝春秋、 p30-36、1992年)。

 実は、ヴォルフガング・エルンスト・パウリ(Wolfgang Ernst Pauli)の経営(指導)を受けていたエルンスト・カール・ゲアラハ・シュテュッケルベルク(Ernst Carl Gerlach Stueckelberg)が1935年に湯川先生より先に中間子理論を考えていた。しかし、パウリに却下され、同じ1935年に中間子理論の論文を発表した湯川先生がノーベル賞を受賞することになった。

 パウリは、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)の推薦により、1945年にノーベル物理学賞を受賞した秀才であり、マックス・ボルン(Max Born)らはアインシュタインよりパウリの方が頭がよかったであろうと評価している。湯川先生の論文を評価した八木先生の経営能力の偉大さが分かる。

 1940年(昭和15年)の日本工学大会の学会代表講演で八木先生は『電子工学の躍進』と題する講演をされたが、その中で八木先生は将来『中性子工学』という新工学が生まれるに相違ないと断言され,現在の原子力工学を予言されている。
 長岡八木の系譜
 特許第273217号の共同発明者となっている渡辺寧先生は八木先生の門下である。渡辺先生は昭和2年(1927年)に陽極分割型マグネトロン(特許第75255号、第75557号)を発明した岡部金治郎先生の要請で、昭和35年(1960年)に静岡大学の学長となり、更に、昭和36年(1961年)には財団法人半導体研究振興会の会長になっている。

 シリコンバレーの父ターマン教授はMIT時代にヴァニーヴァー・ブッシュ(Vannevar Bush)教授の指導を受けている。ブッシュ教授は、戦時中の科学研究の調整・制御役を演じたアメリカ国防研究委員会(NDRC)の設立を強力に推し進めた人間である。

 岡部先生も八木先生の門下である。八木先生は「日本のヴァニーヴァー・ブッシュ」とも言われるが、NDRCでは八木アンテナと岡部先生のマグネトロンを用いたレーダーの研究が研究者を総動員してなされていた。NDRCでのレーダーの研究が第二次世界大戦の命運を決めたとも言われる。

 ブッシュ教授は、原子爆弾の研究も推進していたが、広島・長崎に投下された原子爆弾には地上との距離を測るための八木アンテナが実装されていた。

 渡辺先生は昭和38年(1963年)には東北大学総長に選出されたが、「新制の大学の学長は旧制で考えているほど生やさしいものではない」として、辞退されている。新制大学で初めて「静岡大学電子工学研究所」という正規の付属研究所を設立したのも渡辺先生の尽力の結果である。

 生前は秘密にされていたが、渡辺先生はノーベル賞委員会から日本人で初めてノーベル物理学賞推薦委員に任命されている。

§6 学術尊先覚

 渡辺先生は、弟子である西澤先生に贈られた色紙に「学術尊先覚」に言葉を残され、その色紙が西澤教授室に飾られていた。学術論文を書くまえに特許を書かなくてはならないという経営(指導)が渡辺寧教授の門下では徹底していたのである。

 ソニーの中研所長をされた鳩山道夫さんは「渡辺さんの研究室の特色は、特許出願に熱心だったことだ」と指摘している(鳩山道夫著、『半導体を支えた人びと--超LSIへの道』。誠文堂新光社、p84、1980年)。

 実は「学術尊先覚」は、渡辺先生が長岡半太郎先生からいただいた座右の銘だそうである(渡辺寧、『会長挨拶』。電気学会誌、第79巻第850号、p833-836、1959年)。渡辺先生は東京帝国大学工学部在学中に、高名を慕って理学部の長岡先生の「電磁気学」を聴講している。

 下に示した西澤三原則にもこの「学術尊先覚」の精神が受け継がれている。

 長岡先生は、東北帝国大学の設立が閣議決定されたときに人選を依頼され、長岡先生の弟子にあたる本多光太郎、日下部四郎太、愛知敬一、石原純らを東北帝国大学教授として送り込んでいる。大正11年に来日したアインシュタインは晩年「本多、日下部、愛知、石原が揃っていたころの仙台は脅威だった」と述懐している(松尾博志著、『電子立国日本を育てた男 八木秀次と独創者たち』、文藝春秋、 p94)。

 長岡先生は八木先生も高く評価しており、長岡先生が初代総長となって昭和6年(1931年)に大阪帝国大学が創設されるときに、八木先生に物理学科の初代主任を依頼している。このため、八木先生は東北帝国大学を去ることになる。

 大阪帝国大学は財団法人塩見理化学研究所と大阪府の寄付金によって設立されている。塩見理化学研究所は、大正5年(1916年)に大阪亜鉛鉱業会社の塩見政次氏が米国のロックフェラー研究所を範とし、全財産の半分の100万円を寄附して設立した財団法人である。

 八木先生の弟子の渡辺先生は、1944年(昭和19年)に海軍第2技術廠島田実験所の所長となられ、各大学から集められた人材の一人として日本では2人目のノーベル賞受賞者となった朝永振一郎先生も経営(指導)されている。渡辺先生は、所長として大電力の電波発生源となるマグネトロンの研究に統率力を発揮されている。

 第2次世界大戦中の役割からすると、「日本のヴァニーヴァー・ブッシュ」は八木先生ではなく、渡辺先生であったということになろう。

 1944年にルーズベルト大統領は、ブッシュ教授に「あなた方の努力のお陰で今やわれわれは、戦争の勝利を確信するに至った。平和はまもなく訪れるであろう。今までこの戦争という非常事態の中で、科学者・技術者たちが国策に協力してくれた。この体制を平和が戻った時にもどうやって維持したらいいか、中央政府は何をすればそのことを実現できるのか、あなたに考えてほしい」という手紙を出している。

 ブッシュ教授はそれに答えて、「限りなき前線」というタイトルの報告書を出し、戦後の米国の科学技術の方向性を定めている。日本の戦後の科学技術の方向性を見ていたのは渡辺先生であろう。

 西澤先生に半導体の研究を命じ経営したのも渡辺先生であるが、1949年(昭和24年)頃に物理学の新進学究者を中心に約20名のゲルマニウム(Ge)研究委員会を設けている(渡辺寧先生追悼録刊行会発行「学尊先覚 渡辺寧先生追悼録」、オーム社、p38,p81,p97、1978年)。

 渡辺先生は島田で多くの物理学者と親交を深められた事もあり、戦後物理学、特に量子力学に力を入れられていた。物理学会東北支部において「量子力学における一管見」と題する15分講演を1時間以上延長して話されたという逸話もある。量子力学の研究が、世界で最初のレーザの発明(特許第273217号)に至る一因になっていると思われる。

 朝永先生は、島田での研究について「マグネトロンの研究は、要するに管内での電子の2重周期運動の研究であって、この型の運動は前期量子力学でおなじみのものであるし、また立体回路の方は、入射電波がいろいろなチャネルにどう伝わって行くかという考察であって、 S ーマトリクスの考えが使えるのであった」と回想されている(朝永振一郎、『わが研究の思い出:古い記録から』、日本物理学会誌、第 32 巻、第 10 号, 1977 年, p.767-773 )。

§7 東北大学と古河財閥及び住友財閥

 「産学協同」とは、産業界と大学とが協力して技術教育を高め,生産性向上に努めるものであるが、1969年1月の「安田砦攻防戦」に代表される1960年代の全共闘運動では「産学協同」は敵視されていた。

 1819 年(文政2年)にアメリカで創立されたシンシナティ大学が、1906年(明治39年)にシンシナティ大学とシンシナティ市の工場が協同して2班に分けた学生を交代で大学の講義と工場の実習を並行して実施したコーオプ教育(cooperative education)が、米国の「産学協同」の最初とされている(宮川敬子『米国のコーオプ教育の先導的モデルについて』平成23年度 文部科学省「先導的大学改革推進委託事業」報告書「国内外における産学連携によるキャリア教育・専門教育の推進に関する実態調査」)。
 
 日本においては、1931年~1940年まで東北帝国大学第6代総長を勤められた本多光太郎先生らの尽力で1942年(昭和16年)に設立された千葉工業大学が、設立当初から実習教育を大切にしており、我が国の最初の産学協同(産学連携)の事例を実施していたとされている。
 
 しかし、本多先生は1925年(大正14年)に東洋刃物(株)を、1937年(昭和12年)に東北特殊鋼(株)を、1938年(昭和13年)に東北金属工業(株)を設立されている。1924年(大正13年)に創設された本山商会(現株式会社本山製作所)も本多先生の指導に依拠している。

 さらに1905年(明治38年)に仙台市に設立の成瀬器械店(現株式会社成瀬科学器械)も、本多先生が1915年(大正4年)に考案した熱天秤等を製造市販している。又、日本電熱線製造株式会社は金研で開発された電熱線の製造のために仙台に設立された(日本電熱線製造株式会社は1935年(昭和10年)に日本金属工業株式会社に吸収合併された。)。

 そして、1928年(昭和3年)に富山に設立された不二越鋼材工業株式会社(現株式会社不二越)は、1925年(大正14年)に本多先生の指導をうけてハクソー(金切鋸刃)の材料研究と試作に着手している。不二越鋼材工業株式会社は、創設時の技術者を金研に派遣している。このように、産学協同(産学連携)の事例は大正時代から昭和初期にかけてて、本多先生が既に示されている。
 
 東北特殊鋼50年史には本多先生の提言趣旨が以下のように記載されている:

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 これまで多くの発明や特許を得たものを大阪、東京方面の事業家の要望に応じて指導したが、何分遠隔地でもあり、大学の研究に基づく方法がそれ等の工場で工業化される場合直ぐに満足な結果を得られるものではない。幾度かの質疑応答では解決が出来ず、出張指導の申入れもあるが、大学という立場として随時出向くことは許されず、常に隔靴掻痒の感があります。若し、貴社が企図する特殊鋼工場を当地に設けられるならば、大学は全面的に指導が出来、金研は単なる実験室的な研究から-歩進んだ実地研究が可能となり、旧来の不便が解消され、貴社、大学相互のためはもとより、斯界のために貢献するところ洵に大であると考える。
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 日本の産学協同(産学連携)の起源を更に辿れば,1973年(明治 6年)に工部省が工学寮を設置した原点にまで帰着するであろう。このコラムの第13回で、ロンドンに伊藤博文他4名の長州五傑が密航し、ジャーディン・マセソン(Jardine Matheson) 商会のロンドン社長ヒュー・マセソン(Hugh Matheson)の世話を受けていたことを説明した。その長州五傑の一人である山尾庸三先生が明治元年11月19日(1869年1月1日)に帰国し、工学寮の設置に尽力された。

 1877年工部寮は工部大学校となるが、校舎の建築には70万円という巨額が投入された。1886年の帝国大学令により工部大学校は東京大学工芸学部と合併、帝国大学工科大学となった。当時は世界中のどこにも工科大学は存在していなかったので、我が国が世界で最初に工科大学のある総合大学を造ったことになる。

 1900年(明治33年)第14回帝国議会において理工系の大学として「九州東北帝国大学設置建議案」が採択された。

 しかし、政府の資金難により設置が進まず、1907年(明治40年)になって、古河財閥の寄付金を基礎に、日本で3番目の帝国大学として東北帝国大学の本部が仙台市に設置された。九州帝国大学として独立設置されたのは1911年(明治44年)である。工業興隆を意識した産学連携の思想を明治政府が早い時点から導入していたことがわかる。

 工部寮、工部大学校の時代を含め1880年代前半に至るまで東京帝国大学は、工科大学の学生が最も多く、全体の1/4~1/3を占めていた。東北帝国大学と九州帝国大学の設立後の東京帝国大学の学生数割合は、法科大学(当時は、法学部と経済学部が未分離)が3割から4割に達し、工科大学の学生数割合が急激に減少し、東京帝国大学は政府官僚育成を任務とした大学の性格を強めていく(立花隆著、『天皇と東大 上』、文芸春秋、p.135-137参照。)。

 古河財閥からの「福岡工科大学、仙台理科大学、札幌農科大学」の校舎建設資金は、東北帝大分として農科大学(1918年に東北帝国大学から分離され北海道帝国大学になる)に13.5万円、理科大学に24.4万円、九州帝大分として工科大学に60.8万円が割り当てられたとされる。

 明治後期の1円が現在の1万円に相当すると仮定すれば、東北帝大理科大学の校舎建設資金として約25億円が古河財閥から投入されたことになる。東北帝大理科大学の設置は九州帝国大学と同じ1911年である。

 東北帝大第2代総長北条時敬先生に、本多光太郎先生が理化学研究所の建設を直訴したことがきっかけとなって、1916年(大正5年)1月に住友家15代当主住友吉左衛門から本多光太郎先生への研究費30万円の寄附がなされて東北帝大理科大学臨時理化学研究所が発足した。

 それ以後も寄附金支弁方式で東北帝大理科大学臨時理化学研究所が拡充されて現在の東北大学金属材料研究所に至る。本多先生の発明したKS鋼、新KS鋼の名称の由来は、住友財閥「住友吉左衛門」のイニシャル「K・S」である。

 住友財閥は大正9年~14年の アメリカのウェスタン・エレクトリック(WE)との交渉で、 KS鋼の特許実施権を 30 万ドルで WEに売った。当時のレートは1ドル2円程度であったから、この代価は東北大臨時理研の寄附金 30 万円のおよそ2倍である。

 1935年(昭和10 年)10 月に附属電気通信研究所(現東北大學電気通信研究所)を設立する際には、住友財閥は30万円の研究資金を東北帝大理科大学に提供している。附属電気通信研究所の設立は八木先生が1929年(昭和4年)から文部省に申請していた。

 なお、1924年(大正13年)に財団法人齊藤報恩会が、八木先生を含む3教授の「電気を利用する通信法の研究」という共同研究に対し、向こう5年間毎年4万円の研究補助金を出したときが、実質的な東北大學電気通信研究所の始まりとされている。齊藤報恩会は、当時日本第2位の大地主であった齋藤善右衛門の私財活用財団である。

§8 産学協同から産学連携へ

 1995年に「科学技術基本法」が、1998年、「大学等技術移転促進法」(TLO法)が、1999年には日本版バイ・ドール法(産業活力再生特別措置法第30条)が制定され、政府資金による研究開発から生じた特許等の権利を受託者に帰属させることが可能となった。

 1990年代の中頃になって我が国の政府は、産学官連携と知的財産の活用による経済振興政策を国策とする必然性に気がついた訳である。そして、2004年の国立大学法人法、2006年の新教育基本法の制定により、研究成果の社会還元が大学の使命のひとつとして明記され、1960年代に用いられていた「産学協同」の用語でなく「産学連携」の語が使われるようになってきた。

 知的財産を活用した産学連携を活性化する時代になってきたのであるが、1911年に設置された東北帝大理科大学による研究成果の社会還元や産学連携の試み、更には、1960年代の最初から試みられていた財団法人半導体研究振興会による特許やノウハウ等の知的財産の活用を基軸とした産学協同(産学連携)や研究成果の社会還元の業績を忘れてはならない。 

§9 いまの産学協同(産学連携)は二流品である。

 我が師西澤潤一先生は、「いまの産学協同は二流品である」と嘆かれている(西澤潤一著、『背筋を伸ばせ日本人』、PHP研究所、p174-175、1999年参照。)。現在の産学協同(産学連携)は産業界からの要請によるものであって、研究者の探究心も独創心から出たものではないから「二流品」であるとのことである。
 
 西澤先生は、「大学の研究が新しい産業を起こすようなものでなければ一流とは言えない。かつての本多先生や八木先生のお仕事は一流品だった」と『背筋を伸ばせ日本人』の中で記載されている。

 冒頭の§1で記載した大村先生の「研究を経営するための4つの要素」の(a)の研究のアイデアは、研究者の独創的な探究心から出たものである必要があるということである。又、(d)の「得られた成果の社会還元」とは、新しい産業を起こすような研究成果が求められているということである。

 東京大学の岡村総吾先生の下で博士号を取得し、西澤先生の研究室に移り、その後東北大教授になられた川上彰二郞先生(東北大名誉教授)は以下のように回想している。

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東京大学の岡村研究室は「君子の知恵比べ」的、時には「真剣な遊び」の要素があったが、西澤研究室は戦いとしての研究という雰囲気を感じた。グループは産業界に対し研究成果を挙げ続けることを義務つけられていたのではなかろうか(川上彰二郞著、『私の研究者歴 私の中の古いものと新しいもの』、電子情報通信学会「通信ソサイエティマガジン」No.31 冬号、p186-195 2014年).。
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辨理士・技術コンサルタント(工学博士 IEEE Life member)鈴木壯兵衞でした。
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鈴木壯兵衞
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鈴木壯兵衞(弁理士)

そうべえ国際特許事務所

外国出願を含み、東京で1000件以上の特許出願したグローバルな実績を生かし、出願を支援。最先端の研究者であった技術的理解力をベースとし、国際的な特許出願や商標出願等ができるように中小企業等を支援する。

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