戦国武将から学ぶ健康法
さて、今回のお話は、家康公の脳の中に入り込んで、考え方の核心に迫ってまいります。そこには薬草園を作った真の目的が隠されていたのです。
北の方角を守る獣神「玄(げん)武(ぶ)」
徳川家康公は、幼少の頃より現静岡市の中心に住んでいました。そして家康公が築いた駿府城は、駿河国の府中(政治を執り行う場所)よりその名称が付けられました。その駿府城の北の方角に薬草園があり、4300坪という広大な敷地でした。現在は、静清信用金庫長谷通り支店の前に「駿府薬草園趾」の石碑が建っています。
なぜその場所に薬草園を作ったのか?賢人家康公のやる事全てに裏付けがあるのです。到底及ばない私の頭で必死に探究してみました。
私達の常識から「北」の方角はあまり良い印象がありません。それは、北の方角は太陽が当たらないから冷えるイメージがあるからです。もちろん、迷信的なものですが、北風の寒さは北の方角からやってきます。当時の医学もまだ迷信的な要素があり北風に乗ってインフルエンザなどの悪性熱性疾患(漢方医学ではこれを中風の病と言います)がやって来ると思っていたのでしょう。今で言うコロナウィルスです。対応する薬が見つからず、その方角に薬草を植えることによって防御できると考えたのではないでしょうか。
また、北の方角を古代中国では玄武と言っていました。因みに南を朱雀、東を青龍、西を白虎と言います。日本の有名なキトラ古墳の壁画にもあります四方を守る獣神の一つ玄武は、硬い甲羅を持つ蛇が描かれています。防御する力が強い神様なのでしょうか?
余談にはなりますが、駿府城外堀を清掃していましたら、大蛇のような蛇と出くわした経験があります。また外堀にはいっぱい亀が住んでいます。この地に、北を守る獣神「玄武」は居るのかも知れませんね。
玄武は真武とも言い、その名の「真武湯」は漢方薬の中ではよく体を温め、体力が落ちたこじれたウィルス性疾患にも使われ、功を奏します。もちろん予防にも使われます。漢方薬の中でも「玄武」は冷えから身を守る神薬と言ってもよいのではないでしょうか。
駿府薬草園の生薬
後に阿部正信が著した「駿國雜(すんこくざっ)志(し)」によりますと、家康公は静岡市内に薬草園の「御藥(おんやく)園(えん)」を二箇所もっていました。その一つが、駿府城外堀付近で、一つが久能山下とあります。まず駿府城付近では、住所が安倍郡北安東村(俗に明屋敷(あきやしき)と云う)にあり、初瀨山長谷寺の隣にあり、約4373坪で四方に熊笹生垣があり大場久四郎が地守をしていたそうです。そこにはなんと114種類の薬草が書かれています。その中から、今でも使われている主な薬草を紹介します。
延胡索(朝鮮)、貝母(唐船持渡)、附子(奥州津輕)、甘草(甲州)、黄芩(朝鮮)、呉茱萸(唐船持渡)、肉桂(唐船持渡)、烏藥(唐船持渡)、山茱萸(朝鮮種子)、和木香(江戸)、補骨脂(唐船持渡)、白朮(唐船持渡)、蒼朮(唐船持渡)、枳殻(薩摩)、霍香(薩摩)、烏藥(唐船持渡 揚州)、枳樹(唐船持渡)、和呉茱萸、薄荷、天門冬、地黄、縮砂、當歸、巴戟天、苦参、和防風、黄連、川芎、知母、三菱、柴胡、細辛、杜衡、蘿勤、龍膽、草烏頭、白芷、蘿摩、商陸(やまごほう)、茴香、眞升麻、丸葉升麻、和黄檗、山梔子、金櫻子、辛夷、杜中、厚朴、大棗、黄耆、唐出茯苓、三七、眞五味子、唐覆盆子、大葉麥門冬、升麻、白山芍藥、赤山芍藥、百合、大葉車前、天南星、半夏、唐防已、甘遂、和麻黄、唐酸棗、蔓荊、前胡、澤瀉、木瓜
また、家康公が薬草園を作ってから200年後の1802年に書かれた駿府薬草園絵図では、その栽培品はかなり少なくなります。植物ですから気候に合わないものは絶えてしまったのでしょう。薬草園には、烏薬、呉茱萸、枳実、山茱萸、肉桂といった薬木が多くなり、知母、草豆蒄、延胡索、白朮、蒼朮、巴戟天、使君子、防風、地黄、白芷、ほろほろもんすうがそこに書かれています。
そして時は2020年。静岡市葵区駿府城外堀に、家康公薬草園復活のため東草深町の住民の方々
と当帰、芍薬、牡丹、蒼朮、枸杞、茴香の薬草を観賞用に育てています。
薬草園を作った目的とは
家康公は、健康で長生きする為に、鷹狩で足を鍛え、麦飯で歯を鍛え、秘伝の漢方「八之(はちの)字(じ)」を飲んでいました。それは天下太平の世を作ると言う偉大な目的のために必要でした。応仁の乱から100年以上続いた乱世の時代、薬草を作る(漢方薬を作る)と言うことは武力への反発であったかもしれません。また当時の医者の身分は職人同様低かったと聞いています。これからの時代は武力ではなく、頭を使って勉強し「技」を身に付ける事が大切であると真剣に考えていたのではないでしょうか。その哲学を自ら実践して見せたのが薬草園(漢方薬)作りだったのです。