竹林で花材とり
岩窟に供えられた花。
東南アジアの仏教施設に供えられた赤や黄色の花たちは、黄金色に彩られた仏像を華やかに飾っている。
供花のイメージを花で表現したらどうなるのか。
最初に活けられた花は強烈だった。
3.5メートルの床の間の間口いっぱいに活けられた強い緑と赤い花。
これは東南アジアの仏教施設に供えられる花だったらよく似合っていただろう。
しかし杉山侃子先生の岩窟にはあまりにあわなかった。
それで、会期の2日目の夜。私はこの花の両端を切り詰め、岩窟の絵画の幅に合わせてみた。
まあよくなった。
それを眺めながら、もう少し手をかけたくなった。
4日目の早朝、軽トラで浜石に笹を取りに行った。
水揚げの悪い花材だから、荷台にバケツを3つくくりつけ水をこぼさないようにゆっくり山道を登る。
笹をたくさん採った。水揚げしてみた。笹はしなびることなく夕方までもった。
その日の夜、岩窟の花をいちめんの笹の原に変えた。
笹の葉を活けながら、それがしだいに広がってくると、こめかみがしびれてきた。
「これはいい。」思わず口から出た。
笹の原に白い花をところどころにあしらった。
地寺院の和尚さんがいれてくれたコーヒーをのみながら、二人で岩窟と供えられた笹の原をながめる。
「和尚さん、これはいいよ。」 「わかりますか。」・・・「さあ?」・・・
とにかくいい。
わたしは満足してお寺をあとにした。
翌日、昼頃になって、霧吹きを持って会場にむかった。笹の原はしおれていないだろうか。
会場について真っ先に笹の原を見た。しおれていた。
いくらか開いたままの笹もあったが、しおれていた。
ぼうぜんと、霧吹きをあきらめて笹の原を眺めていると、
杉山侃子先生が、「このしおれた笹がいいわね」と言った。
あ、これもいい。
この、しおれた、枯れた様子が、岩窟にあう。
これもいい。いい。
岩窟にかれた笹の原。
三回目にたどりつけた。
やっと完成した生け花は、最後の一日だけ見ることが出来ました。
気がついた人は少なかっただろうけど、私は満足したのだった。