「アール・デコ」の建築
「東京国立近代美術館工芸館」は明治43年に「近衛師団司令部」として建てられたものです。
建設が決定された明治40年頃は、「日露戦争」が終結し、「朝鮮半島」や「満州」における戦後の経営をいかに進めるかを決定する時期であり、「陸軍」「海軍」ともに増強が計画され、「陸軍」は明治40年に12師団から19師団へ7師団増強されています。
「近衛師団」も「歩兵」「騎兵」「砲兵」「交通兵」(鉄道隊、通信隊、気球隊)の増強を図り、司令部庁舎の新設を計画していました。
設計は明治38年に「工部大学校」を卒業したばかりの陸軍技師「田村鎮」でした。新進気鋭の技師で、大きなプロジェクトは初めてでしたが、「ゴシック風の様式」で赤煉瓦に白の花崗岩が映えています。
ここには「師団長」「師団参謀長」など師団の中枢が執務し、「近衛師団」の動向は全てここから指令が出されたといいます。
昭和20年8月15日若手将校の決起で「森赳師団長」が射殺されたのは2階の師団長室で、その直後に偽の指令が出されたのもこの建物からといわれています。
終戦による「近衛師団」の解散の後は、この「皇宮警察」の寮として利用されていましたが、昭和38年には国の事業として「北の丸地区」にあった「旧近衛師団」の建物群が撤去され、「森林公園」として整備されることとなり、昭和39年4月に「武道館」「科学博物館」「国立公文書館」がその中に設けられることが閣議決定されたため、「旧近衛師団司令部」も解体される運命にありました。
この頃から、「近衛師団」の「戦友会」が中心となった保存運動が動き始め、昭和40年5月に「建設省都市局」から「文化財保護委員会事務局」に対して「旧近衛師団司令部庁舎」の歴史的建築的価値についての問合せが行われ、同委員会は『明治の洋風建築の代表的な遺構であり、適切な利用法のもとに保存されることを希望する。』との回答をしたといわれます。
昭和43年には「北の丸公園」の整備が進捗し、「旧近衛師団司令部」の解体も近づき、「日本建築学会」と「近代建築史」の専門家はこの建物の保存の意見書が関係各省に提出され、これを受けて「文化財保護委員会」から「重要文化財指定」の措置をとるよう意見書が出されました。
昭和46年6月に、「旧近衛師団司令部庁舎処理要領」が作成され、関係省庁との協議を経て、同47年9月庁舎の保存について閣議の了解が得られ、同時に国の「重要文化財」としての指定を受けるとともに、「東京国立近代美術館工芸館」としてその活用を図るための存置が正式に決定されました。
「東京国立近代美術館工芸館」としての改修工事は、文化庁建造物課の監理のもとに、昭和49年4月から「竹中工務店」により設計が行なわれ、展示室を広くするための間仕切り壁の撤去や煉瓦壁体のコンクリート補強、空調、防音、防災設備などの工事が進捗し、52年11月完成しています。
同年11月15日には、「東京国立近代美術館工芸館」として開館しました。
(讀賣新聞:2015.06.19夕刊)
タウ・プロジェクトマネジメンツ一級建築士事務所