「大阪ハリストス正教会」:木造ビザンチン様式
「高安城」は、「白村江の戦い」に敗れた「大和朝廷」が、「唐・新羅連合軍」の来襲に備え、「天智天皇」が6年(667年)に築いた古代の山城です。
「日本書紀」によると、この時期同じ目的で「対馬」「北九州」「瀬戸内の要所」にも同様の山城が築かれたようですが、「高安城」は王城の地「飛鳥」を守る最後の砦として重要な位置を占めていたようです。
大陸からの侵攻はなかったものの、城は34年間維持され、大宝元年(701年)、廃城となります。
その後、戦国時代に入ると、かつては「高安城」の一部であった「信貴山城」エリアに、「松永久秀」が築城し「高安城」が「信貴山城」の出城の役割を果たすようになったと考えられているようです。
「高安山」周辺は標高400m以上の山頂部がいくつもの谷を抱えて複雑な地形をなす地形で、大阪平野に面する西側の山麓は急峻な斜面をなし、外敵の攻撃を防ぎやすい地形といえます。
また、眺望は良好で、今日でも山頂など突端部に立てば、「大阪平野」だけでなく「淡路島」「明石海峡」以東の「大阪湾」が一望できます。
この地形から外敵の動向を瞬時に把握し、味方を必要な時期に必要な場所に派遣する拠点としてこの地が選ばれたといわれています。
《讀賣新聞14.03.12》
タウ・プロジェクトマネジメンツ一級建築士事務所