「伏見稲荷大社(京都)」と「すずめ」焼き
終戦の夏です。
亡き父は、インパール作戦に失敗した後の「ビルマ菊水特別攻撃隊」の一員として「ビルマ」戦線に加わっていました。当時19歳の「少年通信兵」での出兵です。(インパール作戦:昭和19年3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のこと。補給線を軽視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞とて引用されている。)
父の背中には銃弾で穿たれた大きな傷跡があり、腹部には銃弾を取り出す際にできた大きな手術跡もありました。「ビルマ」で生死の境をさまよいイギリス軍の捕虜となり、「インド」抑留先での手術・療養を経た後の日本への帰還です。
晩年、歴史資料などを確認しながらこの体験に基づく手記をしたためていましたが、【イギリスに永住したい】という気持ちを抱き始めた昭和20年9月頃までの捕虜生活の回想を最後に、永い眠りについてしましました。なぜか《紅顔の美少年》という言葉が好きで、手記にもよく出てきます。
書き残した手記は長編ですが、整理して残したいと思っています。よく書かれています。